スターリニズム
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スターリニズム(英:Stalinism、スターリン主義)とは、20世紀なかごろのソビエト連邦(ロシア)の指導者ヨシフ・スターリンの発想と実践の総称。またはそれに通じる考え・実践形態・実践結果としての政治的 ・ 経済体制の総体を指す。それは、ロシア革命と内戦後に発生した特権的官僚と、その権益を防衛する秘密警察の支配を背景にして「絶対的な独裁者」を確立した社会体制である。
スターリンは自ら「レーニンの最も忠実な使徒」を自称し、 その支配イデオロギーを「マルクス・レーニン主義」と命名した。また、レーニン死後、彼を神格化することで自らの個人崇拝をも推奨した。
「スターリニズム」(あるいはスターリニスト)は、非スターリン主義の左翼にとっては、「官僚主義」、「専制的な"自称社会主義国家"の崇拝者」、「独善的なセクト主義」、「個人崇拝」、「社会主義革命を実質的に放棄した日和見主義」、「世界革命を放棄した一国主義」などを指す蔑視語である。スターリン、歴代ソ連邦の政権およびコミンテルン系譜の世界各国の共産党は「スターリニズム(スターリン主義)」を標榜したことはなく、トロツキーおよびトロツキズムの支持者(トロツキスト)によってはじめて規定された呼称・用語および概念である(後のローザ・ルクセンブルクの信奉者を含む)。これらの批判はのちにトロツキズム運動、とりわけスターリン死後のスターリン批判の後のコミンテルン系譜の共産党運動の外における「ニュー・レフト」(新左翼)運動の新たな広がりを作り出し、日本においては反スターリン主義という傾向をも生み出す。
目次 |
[編集] 政治理論としての「スターリニズム」
- スターリニズムの最大の特徴は、スターリン自身が提唱した「世界革命を経なくても(ロシア)一国による社会主義建設が可能である」(一国社会主義論)というテーゼだろう。レーニン、トロツキーをはじめロシア革命期のボルシェビキの指導部は一致した見解であり大前提として「一国による革命と国際革命-世界革命の結合なくして資本家の搾取を廃絶する社会主義体制の建設と確立は不可能である」(世界革命論)を共通の認識にしていた。それは第一インターナショナル以来のマルクス主義の初歩の原則であった、といえる。
ロシア革命を成就させ、「反革命干渉戦争」に勝利したソビエト政権だったが、レーニン、トロツキーらが展望したヨーロッパ革命はドイツをはじめすべての国で敗北してしまう。また、ソビエト国内においても干渉戦争と「反革命」勢力との内戦によって多くの人命が失われ、国土が荒廃した結果、民衆の革命への熱意は低下する。1924年のレーニンの死去にともなって当時ソ連邦共産党書記長に就任したスターリンは、疲弊したロシア民衆と共産党内の意識を背景に「世界革命がなくとも社会主義は建設できる」と打ち出し、その権力を利用して「レーニン記念入党運動」と称して出世志向の者を大量に党員に採用することで党内で多数派を形成し、トロツキーら革命時のボルシェビキ指導部を追放する。党員の大量採用による多数派形成は、ボルシェビキ-ロシア共産党にとっても「意識的な共産主義者の党」だったあり方からの極端な転換である。
また、スターリンは、ソ連邦共産党の権威を背景にコミンテルンにも君臨し、各国の共産党の左派的な部分を「トロツキスト」として追放する。以後、コミンテルンは「世界革命路線」を実質放棄した「ソ連邦防衛のための道具」とされ、「各国革命運動の利益」よりも「ソ連邦の利益」が世界各国の共産党にとって優先された。
- 1934年にソ連共産党党政治局員キーロフが何者かに暗殺される。スターリンは、この事件を「トロツキー一派の仕業」と決めつけ(でっち上げであることは確定している)、「社会主義の建設が進めば進むほど、帝国主義に援助された"内部の敵"の反抗も激烈になる」(いわゆる「階級闘争激化論」)というテーゼをもって、1936年に本格的に「大粛清」を開始する。スターリンは、自らに反対する者、あるいは抹殺してしまいたい者に対して「トロツキスト」というレッテルを多用した。ここで言う「トロツキスト」とは「ソ連邦の破壊を目論むトロツキーを頭目とする反革命分子で帝国主義の手先の群れ」あるいは「ファシストの第五列」などと定義されたが、実際は粛清された多くの者はトロツキーあるいはトロツキーの指導する「左翼反対派」の組織(のちに第四インターナショナルを形成する)とは無関係であった。このレッテルとしての「トロツキスト」という用語は、「スパイ挑発者」あるいは「左翼を装った反革命」を意味するものとして、世界各国の共産党によって第二次大戦後も長らく使用されることになる。大粛清は、共産党内からソビエト赤軍、ソ連邦に亡命していた各国の共産党・コミンテルン活動家、そしてソビエト社会全般へとおよび、その犠牲者は最大約700万人にのぼるとも推定される。
- 「マルクス主義」に「民族(排外)主義」あるいは「国家主義」の概念を持ち込んだのも、スターリンの"功績"と言える。トロツキーをはじめ、革命期のボルシェビキ指導部の多くがユダヤ人であったが、スターリンは「反ユダヤ主義宣伝」によって、彼らの追放を容易にした。また、「一国社会主義建設論」自体も、「ロシア民族の優位性」という宣伝によって鼓舞した側面もある。スターリンが、その「民族主義」を最も鼓舞したのは、ナチス・ドイツによるソ連邦侵攻の時期であろう。スターリンは、その反撃戦を「大祖国戦争」(露名 Великая Отечественная Война 英訳 Great Patriotic War)と名付け、「労働者階級の利益」などのそれまでのマルクス主義の命題を投げ捨てて「ロシア民族の命運を賭けた決戦」として戦争を鼓舞した。また、禁止したはずのロシア正教を復活させて、「ロシア・アイデンティティー」を極限まで扇動した。
この時期の各国の共産党の反ファシズム・レジスタンス戦争は、フランス共産党の「インターナショナリズムと愛国主義の融合」というスローガンに代表されるように、民族主義の色彩を濃くしていた。以後、コミンテルン系譜の共産党の"スターリニズム"の特徴として「プロレタリア国際主義」よりも「民族主義」を強調する綱領・方針が挙げられる(日本共産党においては「民主民族統一戦線」という綱領、あるいは「真の愛国者の党」という宣伝に表現されている)。
[編集] スターリンの経済政策
スターリンは、ソビエト政権が干渉戦争と内戦の終了とともに開始した「新経済政策」(いわゆるNEP)から転換して1928年に第一次五ヶ年計画を開始する。それは西側帝国主義にハイペースで追いつこうとする産業化政策であり、軍事力を高めることを目標とし、また、産業化を後方で支援するための農業の集団化(コルホーズ)をセットとした。そこでは、労働者への極端なノルマを課した成果主義(スタハノフ運動)と「富農(クラーク)の撲滅」が叫ばれた。発電所やダム建設などの巨大プロジェクトによって労働者は動員され、しばし最前線に立たされた「(作り出された)囚人」が無報酬で働き犠牲になった。また、農作物は強制的に徴発され、広範な飢餓地帯(とりわけウクライナ)と大量の死者を生み出すことになる。
現在では、重工業重視による「生産力至上主義」に基づく「社会主義経済建設」の展望も、"スターリニズム"の系譜を引いている思考および志向と言うこともできるだろう。
[編集] 「スターリニズム」の組織論
- ボルシェビキは、元々野次すらも議事録に残し、政策・方針によっては分派活動の形成を容認する党内民主主義の度合いの強い組織だった。ロシア内戦期に、指導部の強化を目的にして分派形成は禁止されたが、少なくともレーニン、トロツキーらにとっては、「内戦期という非常事態における一時的措置」として位置づけられていた。これをスターリンは、レーニン死後、「党は実践集団であって、討論クラブではない」という命題によって、「一枚岩の民主集中制の絶対原則」として分派形成を禁止する。この「原則」が、「指導部批判」イコール「敵対者」と規定される土壌を作り出すことになる。各国の共産党も、例外なくこの「原則」を倣っていくことになるが、この「絶対原則」によって、党内討議・党内民主主義(批判の自由)よりも指導部の「指令」「指導」が絶対化される官僚主義が各国の共産党を共通して蝕んだ大きな根拠となっていく。
- あるいは、「真理は一つであり、その真理に立つ労働者階級の前衛党は各国に一つでしかあり得ない」とする一国一前衛党論は、自派以外の共産主義党派および共産主義者を排撃し、民衆の運動は自派によって指導されなければならない、とする独善主義の論理として作用する。それは「共産党主導でなければ革命は起きない」あるいは「大衆運動・(労働組合などの)大衆組織は共産党を拡大するために存在する」「共産党の指導外の運動は破壊してもよい」というような思考をもたらし、「大衆運動の利益」よりも「共産党の利益」を優先する体質を形成してきたと言える。
以上のような、スターリンおよびソ連邦共産党、コミンテルン系譜の各国共産党の実践形態・実践結果を総称して、非スターリニズム左翼は「スターリニズム」と定義する。1930年代にスターリニズムに基いて成立した一国型社会主義(特にその国家体制)を指してソ連型社会主義とも呼ばれるこれらの国家が実現したものを社会主義と呼ぶべきかどうかについて長い間、非スターリニズムの党派・活動家の間では議論が戦わされた。ソ連邦およびスターリン、ソ連共産党、コミンテルン系譜の共産党を支持しない社会主義者からは社会主義の語から区別するために「官僚的に歪められ、堕落した労働者国家」(トロツキー)、「官僚的集産国家」(マックス・シャハトマン -トロツキー派から分裂したアメリカの活動家)、「国家資本主義」(トニー・クリフ -トロツキー派から分裂したイギリスの活動家)、「赤色帝国主義」(黒田寛一)、「スターリニスト官僚国家」(中核派など)などと規定された。
スターリンの指導下のコミンテルンの系譜に属する共産党は、スターリニズム政党であるか、すべてがそうであった時期を経験している。第二次世界大戦後、世界の3分の1の領域を支配した社会主義国家群は、ソ連型社会主義国家であり「スターリニズム」に支配された国家だったといえる。これらは東欧諸国や北朝鮮のように、ソ連から強制もしくは移植された外発型のスターリニズムと、中国・ユーゴスラビアのように、自ら革命を達成し社会主義を選択した内発型のスターリニズムに分類される。外からの革命によって建国された前者がソ連の影響下からなかなか脱することができなかったのに対して、内発的な革命を経験した後者は長い時間をおかずしてソ連と対立するという現象がみられた。
「ローザ主義者」およびアナキストはレーニン時代のボリシェヴィキ、あるいはトロツキズムもスターリニズムの先行として批判し、同質の強権的な「国家共産主義」として批判している。あるいは、新左翼などの「スターリニズムの批判者」も実はスターリニズムの体質を色濃く引き継いでいる、という指摘は少なくない。また、1991年のソ連邦崩壊以降、世界各国の共産党は党名の変更および社会民主主義への転向を大勢とし、影響力の低下は否めない。それとともに、かつて「モスクワの長女」(ソ連の指令なら何でも従う、の意)などと揶揄されたフランス共産党が、現在ではトロツキスト潮流と共闘するようになるなど、残存共産党の「スターリニズム」の体質の弱まりも指摘される。
[編集] 「アジア的専制」としての「スターリニズム」
中国や北朝鮮にも成立したソ連型スターリニズムについては、その歴史的体質に特徴を見出す立場からしばしば「アジア的専制」の系譜とも言うべきものに位置づけられて説明されることがある。カール・ウィットフォーゲルは中国における古代以来の王朝に実現した中央集権体制が水利事業によって可能になったと考えて「アジア的専制」概念を再定義し、これを適用してスターリニズムを説明しようとした。
実際に、東アジアではソ連や他のソ連衛星国には見られない現象がある。北朝鮮の金日成-金正日の世襲による権力移譲は、マルクス主義の教義からは完全にかけ離れたものとして他の「スターリニズム支配」と比しても際立っている。もっとも、北朝鮮政府自身が1990年には国家イデオロギーに関して「主体思想はマルクス・レーニン主義を基礎にしながらもすでにそれを超克しており、局面ごとには立場を異にする」と宣言している。
[編集] 関連
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