六軒事故
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六軒事故(ろっけんじこ)は、1956年(昭和31年)10月15日に参宮線(当該箇所は、現在の紀勢本線)六軒駅で発生した列車衝突事故である。
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[編集] 事故概要
1956年10月15日18時22分、六軒駅を通過の予定であった名古屋発鳥羽行き下り快速列車(C51形蒸気機関車重連牽引)の機関士・機関助士が、「注意」現示になっていた通過信号機(場内信号機の下に設置されており、「注意」現示なら駅構内で停車しなければならない)を見落とし、列車は通過速度のまま駅構内に進入した。そしてホーム先端の通票授器にタブレットが無く、出発信号機も停止現示であったことに気付き、慌てて非常制動をかけたが間に合わず、列車は安全側線に突っ込み脱線。
補機と本務機は線路から外れて畑に転落したが、後続の客車が本線上で停止した。約20秒後に、遅れていた対向の名古屋行き上り快速列車(C57形蒸気機関車とC51形蒸気機関車の重連牽引)が進入し、はみ出ていた下り列車の客車に衝突、これを破壊しながら機関車と客車が脱線転覆した結果、42名の死者、94名の重軽傷者を出す惨事となった。
この事故により、下り快速列車に乗車中で、修学旅行の往行にあたっていた筑波大学附属坂戸高等学校の学生が多数犠牲になった。死者の中には圧死による者のみならず、横転した蒸気機関車のボイラーから漏れた熱湯を浴びて、ひどい火傷を負った者もいた。
なお、名古屋と伊勢の間には近鉄名古屋線・山田線が既に開業していたが、この時点ではまだ名古屋線が改軌されておらず狭軌で山田線は標準軌であり、軌間が異なるため直通運転が出来なかったことと、当時は国鉄のほうが運賃が安かったことなどにより、修学旅行では関西本線・参宮線を利用するのが一般的であった。
[編集] 事故の調査と疑念
事故の原因については、機関士の信号誤認なのか、それとも駅員の信号操作の遅れなのかが争点になった。
裁判で、下り快速列車の機関士は「通過信号は進行現示だった」と主張した。本来のダイヤでは下り快速列車は六軒駅を通過し、次の松阪駅で上り快速列車と行き違う予定であった。しかし事故当日は下り快速列車が遅れていたため、六軒駅での行き違いへの変更を運転指令所が決め、それを受けた六軒駅の駅員らが信号現示などの変更操作を行っていた。この操作と機関士の信号確認との時間関係が問題となった。捜査では、臨時行き違い変更の指令を駅が受け取り、出発信号機を「停止」、通過信号機を「注意」に変えた時には、列車は既に場内信号機の確認位置まで来ていたことが判明している。しかし、長期で争われた結果として、機関士の信号誤認との判決が下された。
また後日の事故再現で、重連では非常制動が3~4両目の客車までしか伝わらない特性が見いだされ、それによって列車が止まりきれなかったことも事故の遠因とされた。重連運転が常態の上越線では機関車のブレーキ管に中継弁を設け、非常制動が全車両に行き渡るように改造していたが、これはまだ全国には普及していなかった。しかしそれによる管理側の責任は問われなかった。
[編集] 対策
この事故を機に、国電(国鉄電車)区間を中心に用いられていた車内警報装置を全国の主要幹線に設置する方針が決定された。しかしその整備を進めていた矢先の1962年に三河島事故が発生したのを機に、自動的に列車を停止させる機能が付加された自動列車停止装置(ATS)へと整備方針が切り替えられた。