内田康哉
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内田 康哉(うちだ こうさい、やすや)、慶応元年9月29日(1865年11月17日) - 昭和11年(1936年)3月12日)は日本の明治・大正・昭和期の外交官・政治家。伯爵。内閣総理大臣臨時代理。熊本県八代郡氷川町(旧竜北町)出身。
[編集] 来歴・人物
熊本藩医玄真の子として生まれる。同志社英学校に入学するが、2年後に退学。東京帝国大学法科卒業後に外務省に入省。清国大使・オーストリア大使・アメリカ大使・ロシア大使などを歴任し、第4次伊藤博文内閣の外務次官、第2次西園寺公望内閣・原敬内閣・高橋是清内閣・加藤友三郎内閣の外務大臣を務める。原首相の暗殺後、加藤首相の病死後の二度に渡って内閣総理大臣を臨時代理した。二度目の最中には関東大震災が発生している。
講和会議やシベリア出兵などの戦後処理に当たった後、1930年に貴族院議員、1931年に南満州鉄道総裁に就任。1931年9月の満州事変勃発の際には不拡大方針であったが、満鉄首脳で唯一事変拡大派の十河信二の斡旋により関東軍司令官本庄繁と面会したのを機に急進的な拡大派に転向する。
斎藤実内閣では再び外務大臣を務め、満州国建設・国際連盟脱退などを推進した。議会で国を焦土にしても満州国の権益を譲らないと答弁し、焦土外交として物議をかもした。二・二六事件の15日後に病死。享年70。
[編集] 関連項目
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