広田弘毅
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生年月日 | 1878年2月14日 |
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出生地 | 福岡県那珂郡鍛冶町 |
出身校 | 東京帝国大学法学部卒業 |
学位・資格 | 法学士(東京帝国大学) |
前職 | 外務省外交官 外務大臣 |
世襲の有無 | 非国会議員 |
在任期間 | 1936年3月9日 - 1937年1月23日 |
選挙区 | 非国会議員 |
当選回数 | 非国会議員 (内閣総理大臣辞任後: 貴族院議員) |
所属(推薦)党派 | 非国会議員 |
広田 弘毅(廣田 弘毅)(ひろた こうき、1878年(明治11年)2月14日 - 1948年(昭和23年)12月23日)は日本の外交官、政治家。第32代内閣総理大臣。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 生い立ち
1878年2月14日、福岡県那珂郡鍛冶町(現・福岡市中央区天神3丁目)の石材店を営む広田徳平の息子として生まれる。父は腕の良い石工であり、今日でも福岡市の東公園内にある亀山上皇像の銘板には設置に功績があった石工として徳平の名が刻まれている。
初名は、丈太郎(じょうたろう)。『論語』巻四 泰伯第八にある「士不可以不弘毅」(士はもって弘毅ならざるべからず)から採って、高校生のときに改名した。福岡市立大名小学校、福岡県立修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)、第一高等学校を経て東京帝国大学法学部卒業後外務省に入省、外交官になる。1930年~1932年、駐ソ連大使。当時は学歴立身出世の典型として知られた。
[編集] 政界進出
その後政界に進出、1933年(昭和8年)9月14日、斎藤内閣の外務大臣に就任。次の岡田内閣でも留任した。
[編集] 総理大臣就任
二・二六事件の責任をとり総辞職した岡田内閣の後には、初めに近衛文麿に組閣命令が下ったが、病気を理由に辞退。そのため、元老西園寺公望は、広田弘毅に首相就任を引き受けさせるため、近衛文麿と吉田茂を説得役として派遣した。広田は拒み続けたが、ついには承諾し、1936年(昭和11年)3月5日、天皇から組閣大命が下る。閣僚選出について軍部の干渉を受け(軍部による吉田茂入閣拒否他)つつも、3月9日、広田内閣が成立した。
就任後は、軍部大臣現役武官制を復活させ、軍事拡張予算を成立させるなど、軍部の意見を広範に受け入れることとなる。11月には日独防共協定を締結。しかし翌1937年(昭和12年)1月、議会で浜田国松議員の「割腹問答」があると、これに激怒した寺内寿一陸相が広田に解散を要求、ところが広田はあっさり総辞職した。
広田の後任として組閣命令を受けたのは宇垣一成であったが、軍部が反対し流産。替わって林銑十郎に組閣大命が下り、2月2日に林内閣が成立した。その後、第一次近衛内閣の外務大臣に就任、重臣・貴族院議員なども歴任した。第二次世界大戦(大東亜戦争/太平洋戦争)中は東郷茂徳や石黒忠篤とともに院内会派無所属倶楽部を組織して東條内閣や大政翼賛会と対抗した。
なお、現在の国会議事堂は、広田が首相の当時の1936年(昭和11年)に、「帝国議会議事堂」として完成している。
[編集] A級戦犯
大戦終結後、進駐してきた連合国軍によりA級戦争犯罪人として逮捕され、「対アジア侵略の共同謀議」や「非人道的な行動を黙認した罪」等に問われ、極東国際軍事裁判で文官唯一の死刑判決を受けた。
なお、この死刑判決は11人の裁判官中、3人が反対している。オランダのベルト・レーリンク判事は「広田が戦争に反対したこと、そして彼が平和の維持とその後の平和の回復に最善を尽くしたということは、疑う余地が無い」と明確に無罪を主張している。
戦争に反対していた広田に対する死刑判決には多くの疑問の声もあったという。減刑するように全国から数十万という署名が集められた程である。また、死刑を求刑していたはずの連合国の検察側からですら判決は意外だったとの声もあり、首席検事のキーナンですら「なんという馬鹿げた判決か! どんなに重い刑罰を考えても終身刑までではないか!」と批判的なコメントを残している。広田の夫人が国粋主義団体玄洋社幹部の娘だった事が先入観を与えたと見る説もある。
広田自身は、戦争回避に努めたとは言え、結果として、軍部の圧力に屈し戦争を止められなかった責任を痛感しており、裁判では一切の弁明を行わなかった。
[編集] 絞首刑
1948年(昭和23年)12月23日に、巣鴨プリズン内で絞首刑を執行される。
よく伝わる話に、処刑直前に東条英機らが「天皇陛下万歳」をやっているのを耳にして、広田が「今、マンザイをやっていたでしょう」と言ったというものがある。が、刑場の教誨師、花山信勝の著書によると、広田が「マンザイを」云々の発言をしたとは全くかかれておらず、城山三郎の小説「落日燃ゆ」のラストシーンからの引用によるところである。「マンザイ」発言の有無は、広田の後の評判を左右するものとなってしまったが、刑場に居合わせた当事者である花山の著書に記述がないため、あくまでも「マンザイ」発言は小説、フィクションの一部分として考えるのが一般的であろう。
なお、他のA級戦犯同様、広田も靖国神社に合祀されているが、小泉純一郎首相(当時)の靖国神社参拝をきっかけに、A級戦犯分祀論が議論されている。こうした中、広田の孫の弘太郎(当時67歳)が2006年7月27日付朝日新聞をはじめとするマスメディアの取材に対し、『広田家が1978年の合祀に同意した覚えはない(※靖国神社への合祀は遺族への同意を必要としていない)。祖父は軍人でも戦没者でもなかったので、靖国神社と広田家はそもそも縁がない。また、首相であったので何らかの責任(※弘太郎氏は”責任”についての定義は避けている)はある。』という趣旨の発言をしている。
[編集] その他
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 吉田裕『昭和天皇の終戦史』(岩波書店、岩波新書、1992年)
[編集] 伝記
- 岩崎栄『広田弘毅伝』(新潮社、1936年)
- 北川晃二『黙してゆかむ:広田弘毅の生涯』(講談社、1975年。講談社文庫、1987年、ISBN 4061840959)
- 沢田謙『広田弘毅伝』 (歴代総理大臣伝記刊行会、1936年)
- 永松浅造『新日本の巨人を語る:人間・広田弘毅(他三編)』 (森田書房、1936年)
- 広田弘毅伝記刊行会編『広田弘毅』(広田弘毅伝記刊行会、1966年。複製版: 葦書房、1992年5月、ISBN 4751204270)
- 吉井魯斎『児童の鑑 広田弘毅さん』 (尚文館、1936年)
- 渡邊行男『秋霜の人 広田弘毅』 (葦書房、1998年、ISBN 475120730X)
[編集] 伝記小説
- 城山三郎『落日燃ゆ』 (新潮社、1974年、ISBN 4103108045。新潮文庫、1986年、ISBN 4101133182。単行本新装版: 2002年、ISBN 4103108142)
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