千葉三郎
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千葉 三郎(ちば さぶろう、1894年1月25日 – 1979年11月29日)は、昭和期の政治家。千葉県出身。元宮城県知事・労働大臣。東京農業大学第四代学長も務めた(1955年-1959年)。元鐘紡社長・武藤山治の娘婿。
[編集] 来歴・人物
千葉県生まれ。1919年東京帝国大学仏法科を卒業後、三菱鉱業(現・三菱マテリアル)に入社するも、ほどなくして退職し、米国プリンストン大学に留学する。同大大学院終了。1925年、旧千葉2区における衆議院補欠選挙に、岳父・武藤山治率いる「実業同志会」から立候補、初当選を果たす。1928年にも再選される。戦前・戦後を合わせて通算12回当選。1932年、一旦政界を去り、武藤が社長を務める「南米拓殖会社」の取締役として、ブラジル・アマゾン開拓事業に従事する。また早山石油(現・昭和シェル石油)専務等も務めるなど、石油事業にも関係した。
1945年5月、技術院次長となる。同年10月には、堀切善次郎内務大臣の要請により、官選宮城県知事となる。このとき秘書課長兼調査課長に据えるために連れて行ったのが、後に法務大臣となる後藤正夫である。1947年、初の知事公選が実施され当選、引き続き同県知事に就任する。
1949年、第24回衆議院議員総選挙旧宮城1区にて民主党から立候補し当選する。翌1950年民主党幹事長。1952年より選挙区を旧千葉3区に移す。1954年第1次鳩山内閣にて労働大臣として入閣する。
保守合同後は岸信介派-福田赳夫派に所属した。1960年には青木一男・木村篤太郎らとともに右派議員グループ「素心会」を結成、代表世話人となる。特に教育の正常化を熱心に主張していた。1975年勲一等旭日大綬章受章。1976年に政界を引退後は、ブラジルに燃料アルコールの原料となる熱帯イモ「マンジョカ」の栽培地をつくる計画に熱中した。
1979年11月29日、メキシコシティーにて客死。享年85。
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