坂田健史
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坂田 健史(さかた たけふみ、1980年1月29日 - )は、協栄ボクシングジム所属のプロボクサーで、WBA世界フライ級王者。
1999年に他界した金平正紀前会長最後の弟子。広島県安芸郡府中町出身。身長163センチ。
山陽高等学校入学と同時にボクシング部に入部したが数ヶ月で退部。ロックバンドに熱中したが、高校3年時、元WBA世界ミドル級チャンピオン竹原慎二氏の実父が経営する広島竹原ジムに入門しボクシングを再開。高校3年の夏休みに上京して複数のボクシングジムを見学し、その上で協栄ジム入門を決意。
亀田興毅が2005年5月に移籍してくるまで、協栄ジムの中心選手だった。同じジムだが話したことはないと言うが「プロらしいプロ、気持ちを前面に出した戦い方も素晴らしい」と褒める。亀田が移籍してから常に脇役に回され、スパーリングパートナーを務めたこともあったが、苦節10年でようやく栄光を掴んだ。
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[編集] 来歴
[編集] 新人時代
1998年12月5日、3ラウンドTKO勝ちでプロデビュー。 翌年12月18日、有永政幸を6R判定で下し全日本新人王決定戦フライ級制覇。
[編集] 日本王座獲得
2001年4月9日、川端賢樹に判定勝ちして日本フライ級王座を獲得。同タイトルは3度の防衛に成功(初防衛戦では後の日本・OPBF東洋太平洋王者の内藤大助を相手に引分防衛。2度目の防衛戦では、世界挑戦経験者の八尋史朗を9RTKOで下した。
2002年3月30日、4度目の防衛戦でトラッシュ中沼に10R判定負けし、王座転落。その後、2003年4月5日、トラッシュ中沼に10R判定勝ちし、日本フライ級王座を奪還。同タイトルは2度防衛後、返上。
[編集] 世界王座挑戦
2004年6月4日、有明コロシアムでロレンソ・パーラの持つWBA世界フライ級王座に挑戦し、12R判定負け(同じ興行でジムの先輩佐藤修も世界再挑戦)。翌年、9月19日に再びWBA世界フライ級王者ロレンソ・パーラと対戦するも、12R判定負け。
2006年9月18日、韓国スーパーフライ級1位の孫京辰に5RTKO勝ちを収め、パーラ戦から再起5連勝(5戦5勝4KO無敗)をあげる(この試合はスーパーフライ級の契約ウェイトで実施した事からも判るように、スーパーフライ級での世界再挑戦も視野に入れていた)。同年12月2日、フランス・パリで行われたWBA世界フライ級暫定王座決定戦で、同級1位で前ライトフライ級王者のロベルト・バスケス(パナマ)と対戦。5Rにダウンを奪われ、後半盛り返したが12R判定で2-1の惜敗。バスケス側の人間も「(バスケスが)負けたと思った」というくらい王座に接近したが、3度目の世界挑戦も失敗に終わった。
[編集] 世界王座獲得
2007年3月19日、東京の後楽園ホールで行われたWBA世界フライ級タイトルマッチで、ロレンソ・パーラ(ベネズエラ / 前王者)を3R0:14TKOで破り新王者になった。協栄ジム11人目の世界王者となる。
パーラは試合前日の計量で、1回目を53.5kgと上限を2.7kg上回り、2時間後の2回目の計量でも52.9kgと上限を2.1kg上回った為、計量失格。王座を剥奪され、試合は「前王者」の立場で出場することとなった。この違反によりパーラはファイトマネーを35%カットされている。なお、この確信犯とも受け取れるパーラ側の暴挙に協栄ジム側が猛烈に抗議。パーラ側陣営やWBA首脳との協議の結果、試合当日17時に非公式の再計量を行い、バンタム級のリミットにあたる53.5kgを下回る体重である事を確認した上で両選手の試合出場とタイトルマッチの開催を認める……という極めて異例の措置を採った。これは計量失格したパーラに体力回復の機会を与えず、不利な条件での試合を強いたという意味で、協栄ジム側の“政治的勝利”と言える。
坂田は同郷の大先輩でもある先代の協栄ジム会長で師匠の金平正紀の9回忌にあたる3月26日、墓前に勝利を報告する予定である。
[編集] 戦績
- プロボクシング: 35戦 30勝 15KO 4敗 1分
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
前王者 ロレンソ・パーラ |
第36代WBA世界フライ級王者 |
次王者 N/A |
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