ノート:多田徳雄
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多田徳雄本人の業績以外にも広島におけるバレーボールの歴史がてんこもりの記事だと思います。ただ有益な記事だとは思います。-210.196.132.254 2006年4月23日 (日) 10:09 (UTC)
[編集] 経歴とはあんまり関係ないこと
多田らが種を蒔いた広島のバレーボールはその後、大きな実を結実させた。神戸高商の主力選手だった広島出身の鎔米二や高橋哲雄らが帰郷。広島専売(のち専売広島、JTサンダーズ)などに入団し他県に先んじて活性化。1922年創部された日本最初の実業団チーム呉海軍工廠(呉水雷)、広島師範学校、1922年バレーボールを体育正課、及び校技とした広島二中(現広島観音高校)、女子も広島専売女子部(日本最初の女子実業団チーム。JTマーヴェラスとは別のチーム)、広島県女(現広島皆実高校)、広島市女(現広島舟入高校)などの強力チームが築かれた。昭和の初期にはこれらのチームが毎年、全国大会の決勝に進出。1934年には日本選手権男子に呉工廠、女子・広島専売、女子中等に広島県女が優勝、四部門中、三部門を広島勢が独占、日本のバレーボール界を席捲した。戦前これらのチームが当時の全国大会・日本選手権、神宮大会(明治神宮体育大会、国体の前身)を計12回優勝、広島は日本のバレーボールのメッカとなった。
太平洋戦争時は原爆により他県より大きな被害を受けたが、戦後バレーボールも復興し、嚶鳴クラブ、帝人三原、石川島播磨重工呉、専売広島(JTサンダーズ)、崇徳高校などが全国優勝。また選手・指導者も多くの人材を輩出した。戦前最高の選手の一人で球神・重砲などと呼ばれ猛スパイカーとして鳴らし、長く全日本の監督を勤めた長崎重芳、全日本強化委員長などを歴任しバレーボール指導の第一人者と言われた元日本バレーボール協会副会長・故前田豊、東京五輪銅メダルのエースアタッカー・森山輝久(松下電器)、ミュンヘン五輪金メダルメンバー・西本哲雄、富士フイルムの日本リーグ(現・Vリーグ)五連覇をもたらした名将・井原文之、サントリーの創部に参画し現在Vリーグ実行委員長を勤める岡野昌弘、日本電気(現NEC)をVリーグ3度、全日本選手権を4度の優勝に導き、日本男子代表監督も勤めた寺廻太、日本女子代表監督としてロサンゼルス五輪に銅メダルをもたらした米田一典、サントリー選手監督としてVリーグを連覇した桑田美仁、パイオニア・レッドウイングスの栗原恵ら。また前述の崇徳高校は高校三冠と言われる高校総体・国体・春高バレー(1970年から)に於いて、戦後から昭和期のみで、優勝14回、準優勝17回を数え全国1、2の実績を誇り、またかつて高校バレーの御三家、と言われた崇徳高・東京中大附属高・大阪大商大附属高を強豪にした名将・稲葉正文、吉川渉(崇徳)、中村四郎(中大附属高)、上野尚志(大商大附属高)はいずれも広島出身者でありここからも多くの人材を輩出したが、別けても不世出の名セッター猫田勝敏を生んだことで、広島のバレーボールは日本のバレーボール栄光の歴史の、その中心として大きな足跡を残すこととなった。 -220.29.58.98 2006年12月31日 (日) 16:31 (UTC)