室生犀星
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室生 犀星(むろう さいせい、本名: 室生 照道(てるみち)、男性、1889年(明治22年)8月1日 - 1962年(昭和37年)3月26日)は、石川県金沢市生まれの詩人・小説家。
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[編集] 経歴
1889年、加賀藩の足軽頭だった小畠家の小畠弥左衛門吉種とハルという名の女性の間に私生児として生まれた。生後まもなく、生家近くの、真言宗寺院雨宝院住職室生真乗の内縁の妻赤井ハツに引き取られ、その妻の私生児として照道の名で戸籍に登録された。住職の室生家に養子として入ったのは7歳のときであり、この際室生照道を名乗ることになった。私生児として生まれ、実の両親の顔を見ることもなく、生まれてすぐに養子に出されたことは犀星の生い立ちと文学に深い影響を与えた。「お前はオカンボ(妾を意味する金沢の方言)の子だ」と揶揄された犀星は、生みの母親についてのダブルバインド(二重束縛)を背負っていた。『犀星発句集』(1943年)に見える
- 夏の日の匹婦の腹に生まれけり
の句は50歳を過ぎた後も、犀星がこのダブルバインドを引きずっていたことを示している。
1902年(明治35年)金沢市立長町高等小学校を中退し金沢地方裁判所に給仕として就職。裁判所の上司に河越風骨、赤倉錦風といった俳人があり手ほどきを受ける。新聞へ投句を始め1904年(明治37年)10月8日付け『北國新聞』に初掲載。この時の号は照文。その後詩、短歌などにも手を染める。犀星を名乗ったのは1906年(明治39年)からである。犀星という筆名は、当時金沢で活動をしていた漢詩人の国府犀東に対抗したもので、犀川の西に生まれ育ったことからと言う。犀星が育った雨宝院は犀川左岸にあり、犀星はこの川の風情と、上流に見える山々の景色とをことの外愛した。1913年(大正2年)北原白秋に認められ白秋主宰の詩集『朱欒(ざんぼあ)』に寄稿。同じく寄稿していた萩原朔太郎と親交をもつ。1916年(大正5年) 萩原と共に同人誌『感情』を発行。1919年(大正8年)までに32号まで刊行した。この年には中央公論に『幼年時代』、『性に目覚める頃』等を掲載し、注文が来る作家になっていた。1929年(昭和4年)初の句集『魚眠洞発句集』を刊行。1930年代から小説の多作期に入り1934年(昭和9年)『詩よ君とお別れする』を発表し詩との訣別を宣言したが、実際にはその後も多くの詩作を行っている。1935年(昭和10年)、『あにいもうと』で文芸懇話会賞を受賞。 芥川賞の選考委員となり、1942年(昭和17年)まで続けた。1941年(昭和16年)に菊池寛賞。
戦後は小説家としての地位を確立し、多くの秀作を生んだ。娘朝子をモデルとした1958年(昭和33年)の半自叙伝的な長編『杏っ子』は読売文学賞、同年の評論『わが愛する詩人の伝記』は毎日出版文化賞を受賞。古典を基にした『かげろふの日記遺文』(1959年(昭和34年))では野間文芸賞を授賞した。この賞金から翌年、室生犀星詩人賞を設定。1962年(昭和37年)、 肺癌の為に死去。
抒情小曲集の「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」の詩句が有名である。この句の通り、文壇に名を轟かすようになった後も金沢にはほとんど戻ることがなく、そのかわり犀川の写真を貼っていたという。
[編集] 主な作品
[編集] 詩集
- 抒情小曲集
- 青き魚を釣る人
- 十九春詩集
- 愛の詩集
- 第二愛の詩集
- 忘春詩集
- 鶴
- 昨日いらつしつて下さい
[編集] 小説
- 幼年時代
- 性に目覚める頃
- あにいもうと
- 杏っ子
- 或る少女の死まで
- われはうたへどやぶれかぶれ