小森龍邦
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小森 龍邦(こもり たつくに、1932年 - )は、広島県府中市出身の日本の部落解放運動家、政治家。部落解放同盟広島県連合会委員長、同中央本部書記長、衆議院議員、新社会党中央執行委員長などを歴任し、現在は解放同盟広島県連顧問。
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[編集] 履歴
[編集] 部落解放運動家として
1951年、広島県立府中高等学校卒。1961年、広島県青年連合会会長となる。
1962年、日本社会党に入党。部落解放同盟の専従活動家として頭角を現し、1960年代後半に表面化した解放同盟分裂に際しては、日本共産党主導の広島県連に対抗して中央本部につながる広島県連再建に尽力し、県連委員長に就任、組織拡大に成功した。
組織拡大の功績によって中央レベルの発言権を強め、中央執行委員を経て、1982年、中央本部書記長に就任、事実上の最高権力者として解放同盟を指導、84年の新綱領制定にも主導的役割を果たした。
小森の書記長在職が長期になる間に、解放同盟内部においても運動方針に関する意見の相違が生じた。また、1993年の細川護煕連立政権樹立に象徴される政界再編の流れについて、小森は保守系勢力との連立のため党方針を右傾化させる社会党執行部を批判し、上杉佐一郎委員長など他の解放同盟幹部と衝突した。1994年に政治改革法案に反対し、社会党支持の組織方針に背いた責任を取るとして中央本部書記長の辞表を提出、受理された。事実上は他の幹部による解任だったともいわれる。同じ社会党の衆議院議員だった上田卓三や、大阪府連の実力者であった大賀正行とは敵対関係にあったことも知られている。書記長の辞表提出時には、慰留される段取りのはずだったのに、即座に受理されたことを小森は悔しがり、「大賀にやられた」と叫んだ、との裏話も伝わった。
中央本部書記長辞任後も、広島県連に対する影響力を保っている。84年綱領に代わる97年制定の解放同盟現行綱領に関しては、マルクス主義色を一掃した内容について強い批判を表明したり、広島県連が中央の決議機関を一時的にボイコットしたことがあるなど、小森自身も広島県連も、中央本部とは距離を置くスタンスを取り続けている。
また、一部の部落民が部落外に転出して出世するや否や自己の生まれを隠蔽し始める風潮があることを苦々しく思い、「宮澤喜一の父親(宮澤裕)は被差別階級の出だ」と発言し、宮澤から怒りを買ったことがある。
なお、1973年には、戸手商業高校(現・戸手高等学校)で暴力糾弾事件を起こしたとして、暴行傷害罪で罰金刑を受けたことがある(戸手商業高校事件)。
[編集] 政治家として
1962年、衆議院副議長高津正道の誘いで日本社会党に入党。党内では一貫して最左派の社会主義協会派にあった。
1990年の第39回衆議院議員総選挙に地元府中市を含む広島3区(中選挙区)から出馬し、当選。1993年の第40回衆議院議員総選挙でも2度目の当選を果たした。
1994年、細川内閣の与党として小選挙区比例代表並立制を含む政治改革法案に賛成した執行部を批判して、衆議院本会議で反対票を投じて社会党を離脱した。1996年には社会民主党への改組を拒否した旧社会党左派グループと共に新社会党結成に参加。同党所属衆議院議員は小森と岡崎宏美の2名だった。しかし、同年の第41回衆議院議員総選挙では小選挙区の広島6区で自由民主党の亀井静香に敗れ、比例区での復活もかなわず、議席を失った。2001年の第19回参議院議員通常選挙では新社会党の比例区候補者として出馬したが落選した。
2002年には矢田部理の後任として第二代委員長に就任したが、党勢の衰退は2004年の第20回参議院議員通常選挙における党としての候補者擁立も許さず、小森自身を含めた国政選挙での議席回復に失敗した。2005年に同じ広島県出身の栗原君子に地位を譲った。
この他、能筆家で知られ、福山藩藩主阿部正弘の伝記など多数の著書がある。
[編集] 部落解放問題に関する主張
一貫して部落民自身による部落問題の解決を主張し、自民党政府の同和政策を厳しく批判し続けてきた。また、そのためには強硬行動も辞さない態度をとり、解放同盟の外部に対しても積極的な発言を続けている。そのため、外部からの強い批判を受ける事もしばしばある。
藤田敬一『同和はこわい考』(1987年)が出版され、一部で議論を呼んだ際には、その内容が、当時の政府地対協「意見具申」の主張と変わりないと批判。自身の批判の骨子を解放同盟中央本部の「『同和はこわい考』に対する基本的見解」として決定させ、事実上の禁書処分に付した。それを批判する解放同盟周辺の知識人、土方鐵や師岡佑行らとも論争した。
解放同盟中央本部書記長在任中には、TV「朝まで生テレビ!」の「部落と人権」特集で部落解放同盟の代表者として出演(1989年)したり、小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』にも登場し、その運動の正当性を主張した事でも有名。
オランダ人ジャーナリストのカレル・ヴァン・ウォルフレンの著書『日本/権力構造の謎』(早川書房)の記述を取り上げて、抗議を申し入れ、それをうけて1990年10月30日に実現したウォルフレンとの公開討論会に参加し、部落差別かどうかの判定権は部落民にのみあるとする理論を展開。ウォルフレンは、この一件を「国際的スキャンダル」と表現した。
1992年、月刊『現代』誌上で、島田裕巳(当時日本女子大助教授)の司会のもとに麻原彰晃と対談し、部落民に共感を寄せる姿勢を取った麻原と共鳴した。ただし、その後の両者の交遊関係は不明であり、特に存在していないと見られる。
[編集] 関連項目
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