山田太郎 (ドカベン)
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山田 太郎(やまだ たろう)は、漫画『ドカベン』に登場する架空の人物。アニメ版での声優は田中秀幸。
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[編集] 経歴
誕生日は5月5日。新潟県新潟市旭七ヶ町生まれの神奈川県横浜市育ち。家族は祖父と妹・サチ子(両親は早くに交通事故(バス)で死亡。太郎とサチ子もそのバスに乗っていたが太郎がサチ子を助け2人は助かった。)。実家は昔ながらの長屋で借家だが、祖父は畳屋を営んでいる。性格は優しく人畜無害だが人を食ったような場面もある。身長は175cm、体重は85kgだとされる。右投げ左打ち。
鞄の中にご飯だけを詰めたでっかい弁当箱を入れていたことからドカベンのあだ名がついた。
高校時代から目標としていた選手は元ヤンキースのレジー・ジャクソン。
[編集] 中学時代
中学二年時に西南中学から鷹丘中学に転校する。西南中時代は野球部所属だったが、東郷学園中等部との試合中ホームでのクロスプレーでカバーに入った小林真司投手の目をスパイクしてしまい、失明の危機に追いやってしまう。そのショックから鷹丘中学では廃部寸前の柔道部に入り、主将の木下、岩鬼らと共に大会で準優勝に輝く。この柔道で後のライバルとなる影丸、賀間と出会う。 その後小林の目の手術が成功した事がきっかけとなり、再度野球に対する情熱が芽生え、岩鬼が主将を務めていた野球部に入部。ピアノの名手であった殿馬と出会い野球部へ誘う。
[編集] 明訓高校時代
明訓高校に入学後、野球部に入部。主将でありエースキャッチャーの土井垣にはその体型から「一昔前の捕手だ」と酷評される(しかし後に土井垣は「山田が入って来た時『これはかなわん』と思った」と告白している)が、クレバーなリードとキャッチングセンスと強肩、また同級生でエースの里中の策略によって一年から明訓高校の正捕手として活躍。また、人並みはずれた打撃により、一年から五番打者として活躍。一年の夏の甲子園終了後、四番に定着。欠点は鈍足であることで、ライトにゴロを打っても一塁に走るまでに一塁に送球されてアウトになったこともある(岩鬼曰く「山田の足はリトルリーグ。」)。ただ、なぜか守備では機敏。
明訓高校を5度甲子園に導き、春夏計4度の優勝に貢献している。高校生活では2年夏の甲子園大会で弁慶高校に敗れただけという驚異的な勝率を誇る。甲子園通算成績は打率7割5分、本塁打20、打点51、盗塁阻止率9割。驚異的な勝負強さを持ち、幾度と無くチームのピンチに決勝打を放つがその反面変則投手や変則投球には意外と脆い一面もある。
高校時代の主なライバルに、同じ神奈川県内の、不知火(白新高校)、雲竜(東海高校)、土門(横浜学院)、そして直接対決は実現しなかったが小林真司(東郷学園)がいる。1年秋の関東大会では中学時代の柔道のライバルだった賀間(甲府学院:山梨県)、影丸(クリーンハイスクール:千葉県)、中学時代同級生だった木下(赤城山高校:群馬県)とも対戦。また同じ関東代表として2年春のセンバツ大会で中(江川学院:栃木県)とも対戦している。その他全国では犬飼兄弟、犬神(土佐丸高校:高知県)、坂田(通天閣高校:大阪)、大平(花巻高校:岩手県)などがいる。
とくに高校3年夏の甲子園大会では『大甲子園』と銘打ち水島漫画のオールスター達とも対戦した。
[編集] プロ野球界へ
三年の夏の甲子園終了後、プロ野球ドラフト会議で10球団(巨人・福岡ダイエー以外)から1位指名を受け、高校卒業後に抽選の結果西武ライオンズに入団する。伊東勤捕手(現監督)の控えとしてシーズン当初は代打としてベンチを暖めていた(なお、意外な事にプロ初ヒットは内野安打。この試合で同時に脅威の160mのプロ初本塁打も放つ。打たれた投手は下柳剛)。中盤から伊東の怪我によりレギュラー定着し清原和博の前を打つ3番に定着(以後、伊東は指名打者で出場。同年のオールスターでは岩鬼が1番、イチローが3番になったため5番で出場する)。その清原和博(巨人―オリックス)がFAで移籍した1997年、シーズン途中で4番に定着する(ちなみに前年にオールスターでなった経験がある)。
山田在籍時のライオンズは3回リーグ優勝しているが1回も日本一になっていない。
2001年、打撃部門の三冠王を獲得(単独ではなく、ホームラン王は岩鬼と分け合う形となった)。なお、パ・リーグでは1985年の落合博満以来。また、2002年に打点162の日本新記録等を達成。
ちなみに、実在の選手で山田をカモにしたピッチャーは1999年までオリックスに在籍していた星野伸之。
2002年、プロ野球新記録となるシーズン162打点を達成。
2003年オフにFAで新球団東京スーパースターズに移籍。監督は高校時代の先輩である土井垣将(元日ハム)。
[編集] 略歴
- 球歴・入団経緯 明訓高校-西武ライオンズ(1995年~2003年)-東京スーパースターズ(2004年~)
[編集] 主な記録
- 新人王(1995年)
- 首位打者1回(2001年)
- 本塁打王6回(1995,1998,1999,2001,2002,2005年)
- 打点王7回(1995~1997,1999,2001,2002,2005年)
- 打撃三冠王1回(2001年)
- オールスターMVP3回(1995,1999,2001年)
- オールスターゲームでサイクルヒット(2001年)
- アジアシリーズMVP(2005年)
[編集] 背番号
- 02(1995年 - 2003年。実際の西武では打撃投手等チームスタッフの番号だった。連載開始前後に、NPBにおいては、現役選手の背番号は00および0〜99という見解が出され、現実にはこの番号をつけることはできなくなった)
- 2(2004年 - )