島義勇
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島義勇(しまよしたけ、文政5年9月12日(1822年10月26日) - 明治7年(1874年)4月13日)は佐賀藩士、明治時代の顕官。「佐賀の七賢人」の一人に数えられている。
札幌市役所の1階のロビーに、札幌最初の開拓使判官として島義勇の像がある。
[編集] 生涯
肥前国佐賀城下の精小路(現佐賀県佐賀市)に、佐賀藩士・島市郎右衛門の長男として生まれる。通称は団右衛門、字は国華、楽斉、桜陰の号。文政13年(1830年)より藩校・弘道館で学ぶ。天保15年(1844年)に家督を継いだ後は諸国を遊学し、佐藤一斎・藤田東湖らにも学んだ。帰国して藩主・鍋島直正の外小姓、弘道館目付となる。安政3年~4年(1856年~1857年)に藩主鍋島直正の命で、箱館奉行堀利煕(としひろ)の近習となり、蝦夷地と樺太探検・調査し、『入北記』という記録を記す。慶応4年(1868年)3月、佐賀藩の海軍軍監、ついで東上し、下野鎮圧軍大総督軍監となり、新政府の東北征討に従う。政府の会計官判事に任命される。明治2年(1869年)6月6日、新政府の議定・藩主鍋島直正が蝦夷開拓督務兼務に任命されると、島義勇は蝦夷開拓御用掛に任命され、同年7月22日、開拓使主席判官に就任。同年9月25日函館に着き、本府建設のため陸路岩内・小樽を経て10月12日、銭函に開拓使仮役所を開設した。 しかし開拓費用を早々に使い果たしたり、人事・炭鉱経営・物資調達を独断で行なうなどの失政により、翌年1月に罷免される。
明治4年(1871年)に秋田県令に就任したが、政府の中央専制主義に反対して翌年に辞任。明治7年(1874年)に江藤新平と共に佐賀の乱を起こすが敗れ、鹿児島まで逃亡して島津久光を頼り、大久保利通に助命の旨を取り次いでもらったが、受け入れられることなく、明治7年3月7日捕らえられ、4月13日斬首刑に処された。 なお、明治22年(1889年)勅令第12号大赦となり、大正5年(1916年)4月11日、生前の勲功をもって従四位を贈られた。
[編集] 功績
札幌市中心部の特徴ともなっている、京都を模した碁盤の目の都市計画は島義勇の発案と言われている。