藤田東湖
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藤田 東湖(ふじた とうこ、1806年5月4日(文化3年3月16日) - 1855年11月11日(安政2年10月2日))は、江戸時代後期の幕末に活躍した水戸藩の政治家、水戸学藤田派の学者。東湖神社の祭神。戸田忠太夫と水戸藩の双璧をなし、徳川斉昭の腹心として水戸の両田と称された。また、水戸の両田に武田耕雲斎を加え、水戸の三田とも称される。特に水戸学の大家として著名であり、全国の尊皇志士に大きな影響を与えた。位階は贈正四位。墓所は茨城県水戸市松本町常磐共有墓地。
「東湖」は号で、生家の東に千波湖があったことにちなむという(千波湖は後に東側を中心に埋め立てが進み、元の3分の1ほどの大きさになったため、現在の生家跡から東に湖は見えない)。名は彪(たけき)、字を斌卿(ひんけい)と言い、虎之助、虎之介、誠之進の通称を持つ。
父は水戸学者藤田幽谷、母は町与力沢氏の娘。藤田家は、遠祖が平安時代前期の政治家である小野篁に遡ると言われ、中世に常陸へ移り、江戸初期には那珂郡飯田村中島で百姓を営んでいる。言徳の代に水戸城下へ移転し、古着商を営む。
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[編集] 生涯
常陸国東茨城郡水戸(茨城県水戸市)城下の藤田家屋敷に生まれる。1827年(文政10年)に家督を相続し、進物番200石となった後は、水戸学藤田派の後継として才を発揮し、彰考館編集、彰考館総裁代役などを歴任する。当時藤田派と対立していた立原派との和解に尽力するなど水戸学の大成者としての地位を確立する。
1829年(文政12年)の水戸藩主継嗣問題に当たっては徳川斉昭派に加わり、同年の斉昭襲封後は郡奉行、江戸通事御用役、御用調役と順調に昇進し、1840年(天保11年)には側用人として藩政改革に当たるなど、藩主斉昭の絶大な信用を得るに至った。
しかし、1844年(弘化元年)5月に斉昭が隠居謹慎処分を受けると共に失脚し、同年9月には禄を剥奪される。更に1846年(弘化3年)斉昭が謹慎解除されるとそれまでの責めを受け江戸屋敷に幽閉、翌年謹慎処分となる。
1850年(嘉永3年)にようやく水戸に戻ることを許され、1852年(嘉永5年)には処分を解かれている。藩政復帰の機会は早く、翌1853年(嘉永6年)ペリーが浦賀に来航し、徳川斉昭が海防参与として幕政に参画すると東湖も江戸藩邸に召し出され、幕府海岸防禦御用掛として再び斉昭を補佐することになる。1854年(安政元年)には側用人に復帰している。
1855年11月11日(安政2年10月2日)に発生した安政の大地震の際、一度は脱出するも火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻ると東湖も後を追う。落下してきた梁(鴨居)から母親を守る為に自らの肩で受け止め、何とか母親を脱出させることに成功するが、自身は力尽き下敷きとなって圧死する。享年50。
墓所は茨城県水戸市松本町にある常磐共有墓地。尚、藩邸跡である東京都文京区後楽には「藤田東湖護母致命の処」と記された案内板がある。藩邸跡に建立されていた記念碑は道路拡張の際に小石川後楽園へと移されている。
[編集] 著作
- 弘道館記述義
- 常陸帯
[編集] 人物
- 「彼の宅へ差し越し申し候と清水に浴し候塩梅にて心中一点の雲霞なく唯情浄なる心に相成り帰路を忘れ候次第に御座候」
- (彼(東湖)の御宅に伺った時は、まるで清水を浴びたような、心に少しも曇りのない清らかな心になってしまい、帰り道を忘れてしまうほどでした)