市川房枝
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市川房枝(いちかわ ふさえ、1893年5月15日 - 1981年2月11日)は日本の婦人運動家、政治家、元参議院議員。愛知県中島郡明地村(のちの、尾西市。市町村合併により現在は一宮市)生まれ。戦前・戦後の日本において、女性の社会的・政治的権利獲得を求める婦人参政権運動(婦人運動)を主導した。
昭和56年2月、尾西市の名誉市民となる(市町村合併により、現在は一宮市の名誉市民)。賞歴には永年在職議員表彰など。
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[編集] 経歴
[編集] 婦選運動への関与の開始
愛知県中島郡明地村(後の尾西市、現在の一宮市)に農家の3女として生まれる。横暴な父にけなげに立ち向かう母の姿を見た体験は、房枝が後に女性の地位向上に努力する原点となった。
愛知県女子師範学校(現在の愛知教育大学の前身の一つ)在学時には伝統的な良妻賢母教育に反対して同級生と共にストライキ(授業ボイコット)を実施し、その後の婦人運動家としての活動を予感させた。[1]
卒業後は愛知県内の訓導として勤務したが病気のため退職。1917年(大正7)からは名古屋新聞(現在の中日新聞)の記者となった。その後新聞社を辞職して東京に移る。
1919年(大正8)には平塚雷鳥らと日本初の婦人団体となる新婦人協会を設立し、女性の集会結社の自由を禁止していた治安警察法第五条の改正を求める運動を展開。1924年(大正13)には「婦人参政権獲得期成同盟会」を結成した。男子普通選挙が成立した1925年(大正14)年には同盟会を「婦選獲得同盟」と改称し、政府・議会に対し、婦人参政権を求める運動を続けた。また、1924年には国際労働機関(ILO)の職員となり(1927年(昭和2)に辞職)、女性の深夜労働などの実態調査を行った。
昭和に入り、1930年(昭和5)には「第1回婦選大会」を開催し、同年には衆議院で婦人参政権(公民権)付与を可決させる所まで進んだ。しかしこの時は貴族院の反対で実現に至らなかった。市川は婦選運動以外にも汚職反対・母子保護・生活防衛などを目的とした様々な運動に関わった。
[編集] 戦争協力と婦人参政権実現
1930年代に大陸での戦争が激化すると、市川は国策への協力により婦人の発言力拡大を目指す方針をとり、1940年(昭和15)には婦選獲得同盟を解消して「婦人時局研究会」へ統合させた。太平洋戦争開始後の1942年(昭和17)には婦人団体が大日本婦人会へと統合され、大政翼賛会を中心とした翼賛体制の一員として組み込まれた。また、大日本報国言論会の理事ともなった。
終戦直後の1945年(昭和20)8月25日には、久布白落実、山高しげり、赤松常子らと共に「戦後対策婦人委員会」を組織し、引き続き政府や各政党に婦人参政権を要求。同年11月3日には戦後初の婦人団体「新日本婦人同盟」を結成し会長に就任した。12月17日には衆議院議員選挙法改正で婦人参政権(男女普通選挙)が実現し、市川の悲願が達成された。1946年(昭和21)の第22回衆議院議員総選挙においては39人の婦人(女性)議員が当選し、市川は超党派の「婦人議員クラブ」の設立に尽力した。
しかし、1947年(昭和22)から1950年(昭和25)まで公職追放となる。戦時中に大日本報国言論会理事として言論統制に関わったというのが理由であった。婦人参政権の獲得とその拡大を最優先させた戦時中から戦後にかけての市川の行動に対しては、宮本百合子などから批判が寄せられた。
[編集] 公職復帰以降
1950年(昭和25)10月13日に追放解除。同年11月9日には新日本婦人同盟の臨時総会に於いて、団体の名称が日本婦人有権者同盟と改称され、市川が会長に復帰(1953年(昭和28)4月25日まで)。その後は、公娼制度復活反対や売春禁止、再軍備反対などの運動にも取り組んだ。
1953年(昭和28)の第3回参議院議員通常選挙に東京地方区から立候補し当選。4期目を目指した1971年(昭和46)の第9回参議院議員通常選挙で落選するも、1974年(昭和49)の第10回参議院議員通常選挙で全国区から立候補、当選して通算5期25年務めた。組織に頼らず個人的な支援者が手弁当で選挙運動を行う選挙スタイルを生涯変えず、「理想選挙」とまで言われた。市川は自らの選挙手法を他の候補者にも広めようとしてさまざまな選挙浄化運動に参加した。なお、1974年の参議院選挙で市川の選挙スタッフを務めた菅直人は、この事がきっかけとなって1976年の第34回衆議院議員総選挙に無所属で出馬して落選した。後に江田三郎に誘われ、社会市民連合へ参加する事になった。現在でも菅は、市川を「自らの政治の師」と仰いでいる。
国会内では政党に属さず、無所属議員の集合体である第二院クラブに所属して活動を行った。二院クラブは小会派ではあったが、市川の知名度は高く、予算委員会などで歴代の総理大臣と論戦を行う事もしばしばあった。また、無党派を表明しながらも実際の行動は保守より革新に近く、1967年(昭和42)の統一地方選挙では東京都知事選挙で美濃部亮吉を支援し、革新都政の実現を後押しした。その一方、石原莞爾を「高潔な人格者」と高く評価したり、1963年結成の「麻薬追放国土浄化同盟」では、右翼の大物と目されていた田中清玄や暴力団・山口組組長の田岡一雄などとも協力するなど、ある種の柔軟性も備えていた。
[編集] 最晩年と没後
1980年(昭和55)の第12回参議院議員通常選挙では、市川は87歳の高齢でありながら全国区でのトップ当選を果たしたが、1981年に心筋梗塞のため現職議員のまま死去した。生涯独身を通し、一生を婦人参政権の実現とその拡大に捧げた。死去の2日後、参議院本会議では市川への追悼演説と永年在職議員表彰がともに行われた。また、同年に出身地愛知県尾西市の名誉市民となった(尾西市が一宮市と合併後は、一宮市の名誉市民となっている)。
現在、国立国会図書館には、市川が1978年(昭和53)に語った「政治談話録音」が収録されている。7時間に及ぶ長いもので、30年後の2008年(平成20)に公開されるはずであったが、市川房枝記念会等の要望により期限前に公開された。現在、国立国会図書館にて、テープの視聴、および、テープから文字起こしをした「談話速記録」の閲覧、複写が可能である。
市川の元公設秘書の1人だった河西信美は、その後社会党狛江市議を4期務め、2001年(平成13)に民主党都議会議員となり、自民党、公明党、民主党、生活者ネット、連合東京の推薦を得て、2004年(平成16)の狛江市長選挙(同年6月20日投開票)に出馬したが、日本共産党推薦の現職矢野ゆたかに敗れた。
[編集] 参考文献
- 市川房枝 1974 『市川房枝自伝(戦前編)』 新宿書房。
- 市川房枝 1972 『私の婦人運動』 秋元書房。
- 折井美耶子・女性の歴史研究会(編著)2006『新婦人協会の研究』ドメス出版。
[編集] 関連項目
[編集] 外部へのリンク
[編集] 脚注
- ^ 祖母が市川の友人であった劇作家永井愛の手によって「見よ、飛行機の高く飛べるを」の題名にて1997年に劇化されている。