広永益隆
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広永 益隆(ひろなが やすたか、1968年3月5日)は徳島県出身。昭和末期から平成期(1980年代後半-1990年代)のプロ野球選手。右投げ左打ち。
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[編集] 来歴・人物
徳島商業では四国屈指のスラッガーとして名を売り、1986年ドラフト3位で指名を受け南海ホークスに入団。チーム名がダイエーへと変わった3年目の1989年に1軍へあがり、代打を中心に活躍。プロ初打席では当時日本ハムファイターズに所属していた西崎幸広から本塁打を放つ。1990年には規定打席未満ながら打率.313をマーク。しかし、1993年にチームの本拠地が福岡ドームになってから本塁打数が減少。
1994年からヤクルトスワローズに金銭トレードで入団し、代打の切り札として活躍。1995年のリーグ優勝に大きく貢献した。1997年途中に馬場敏史・岩崎久則とのトレードで小倉恒とともにオリックス・ブルーウェーブに入団。1999年限りで引退。
通算34本塁打にも関わらず、メモリアルアーチが異常に多いことから(プロ野球6万号、福岡ダイエーホークス公式戦1号=プロ入り初打席で代打3ラン、パ・リーグ3万号、代打サヨナラ満塁アーチ、平和台球場最終ホームラン(下記参照)など)「メモリアル男」あるいは「記憶より記録に残る男」と呼ばれた。引退後はマスターズリーグの初年度に福岡ドンタクズに所属していたが、現在は地元四国の少年野球チームを指導している。
[編集] エピソード
- 多くの異質な本塁打記録を持つ。オリックス時代の1998年7月7日当時大型連敗(16連敗)を続けていた、ロッテ戦で同点で迎えた延長12回裏に近藤芳久から代打サヨナラ満塁本塁打を放ち(ヤクルト時代の1995年にも代打サヨナラ本塁打を放っており、史上2人目の両リーグ代打サヨナラ本塁打記録者となっている)、ロッテの連敗を17に伸ばさせたシーンが印象に残る。
- ダイエー時代の1990年6月26日オリックス戦でプロ野球通算6万号となる本塁打を放った。1992年6月6日西武戦ではパ・リーグ通算3万号を放った。1992年10月1日近鉄戦で放った決勝ホームランは平和台野球場の最終本塁打となった。
[編集] メモリアルアーチ
- プロ初打席初本塁打(それと同時に福岡ダイエーホークスチーム1号本塁打)
- 日本プロ野球通算6万号
- パ・リーグ通算3万号
- 平和台球場公式最終戦本塁打
- ロッテに日本記録を更新させる17連敗を付ける代打サヨナラ満塁本塁打
- 現役最終本塁打
[編集] 背番号
- 47(1987年~1994年途中)
- 49(1994年途中~1997年途中)
- 00(1997年途中~1999年)