康芳夫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
康 芳夫(こう よしお、1937年5月15日 - )は東京都出身のプロデューサー。
1960年代から1970年代にかけてテレビ局とタイアップ、珍奇な企画を立ち上げて日本中を熱狂させた。広告代理店などの巨大資本や政治・宗教団体からインデペンデントな立ち位置を保った。同時代の先輩であるキョードー東京の永島達司のようにイベントを「事業」として永続させることはできなかったが、その本質は企業家ではなく他人を驚かせる事のみ興味のある風狂人とする評価もある。
駐日中国大使の侍医の中国人の父と日本人の母との間に三人兄妹の次男として生まれる。海城高校卒業。東京大学在学中の1961年に五月祭の企画委員長を務め、ジャズフェスティバルや文化人によるティーチインを開催する。これがプロデュース業の原点となる。このときに石原慎太郎と知己を得て、1962年に彼の紹介で「赤い呼び屋」と呼ばれた神彰が主催するアート・フレンド・アソシエーションに就職。本格的に興行師としての仕事を開始した。
アート・フレンドは、ソニー・ロリンズ日本招聘、大西部サーカス、富士スピードウェイでのインディ500開催、アラビア大魔法団を公演した。実現しなかったものにはマイルス・デイヴィス日本招聘、モハメド・アリの日本戦がある。
麻薬問題によるマイルス・デイヴィスの入国拒否で多額の負債を抱え、しばらくは出版業で糊口をしのぐが、やがて長年のパートナー神彰と訣別し、康芳夫は単独で活動を再開。1972年のモハメド・アリ対マックフォスター、翌年のトム・ジョーンズの来日公演を実現して大いに名を上げる。
しかし以降の康芳夫は「虚業家」を自称して、正統的なプロデュース業からキワモノ的な仕事が多くなる。1973年の石原慎太郎を隊長とする「国際ネッシー探検隊」、1976年のオリバー君招聘とモハメド・アリ対アントニオ猪木のコーディネートである。その後は、1977年のハイチでのトラ対空手家山元守の試合、1979年のアントニオ猪木対ウガンダのイディ・アミン大統領の試合はいずれも中止を余儀なくされ、1982年のテレビ朝日によるロサンゼルス五輪独占放映権獲得、1986年の「ノアの方舟探索プロジェクト」も実現には至らず、康芳夫の呼び屋としての活躍は実質的に1970年代までである。
出版分野における仕事には、澁澤龍彦編集の「血と薔薇」創刊、「家畜人ヤプー」出版、週刊プレイボーイでの「三浦和義のアナーキー人生相談」プロモート、川尻徹のノストラダムス本プロデュースなどがある。
現在は「家畜人ヤプー」関係の仕事が中心であるが、イタリアの医師と組んだ「ヒトクローン計画」が進行中だという。
「楯の会」の森田必勝、オウム真理教の麻原彰晃は康芳夫の事務所に出入りしていた。