日本文明
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日本文明(にほんぶんめい/にっぽんぶんめい)とは日本列島あるいは日本人(日本人と区別して日本民族ともいわれる)に固有の文明社会を想定する用語である。
比較文明論などの主流な学問分野では、対象は近現代の日本社会や日本文化を主とする。またその論点は日本人論ともしばしば近接し、日本の文明社会の特質を論じる際には日本人論が援用されることが多い。
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[編集] 概要、主に研究史的視点から
歴史的な経緯から見ると、欧米からの日本の文明社会に対する関心が高まったのは、ひとえに明治維新後の日本社会の急激な近代化による。欧米の日本研究の最初期には、日本への関心は他の東洋社会への関心と同様にエキゾチズムやオリエンタリズムの域を出ることはなかったが、19世紀の日本の開国以降、西洋の旅行者や観察者による多くの見聞録によって、日本の社会構造に西洋と似通った点があることが指摘されるようになった。やがて国際社会で軍事大国として日本が台頭すると、日本を西洋と類似したものとして捉える傾向はさらに強まった。
また欧米からの日本への関心は、高度に近代的な成功を収めたにも関わらず、一方で日本独自な伝統社会を維持していると考えられていることにも支えられている。 最もどの特質が日本独自な伝統に属するのか、また日本社会での影響の程度は、またその特質が他の社会と共通性がないのかについては、様々な見解がある。さらに方法論では、日本の組織や制度の分析に基づく構造的な把握を重視する観点と、日本人の行動様式や文化の傾向から論じる文化人類学的な観点に大きく分かれる。
前者の研究ではマックス・ヴェーバーの官僚制論などが援用され、当初は日本社会の特質を比較的小規模に見る傾向があったが、徐々に後者の手法も取り入れて、今日では日本に独自の制度構造を見る視点が一般的である。研究の動向からいえば、日本の制度的現実は日本の文化様式とある程度関係性を持っているという見解が主流である。したがって最近の研究は、多かれ少なかれこの2つの相異なる観点双方を考慮しておこなわれている。
[編集] 近代化の成功と文化構造の二面性
日本の近代化が驚異的な速度で成し遂げられたことはほぼ定着した見解である。1905年の日露戦争勝利によって、アジアでいち早く列強の仲間入りを果たした。日本の社会はこの時点で体系的な法典を備え、官僚制による国土の中央集権的な支配と階層秩序を完了していた。一方でこの近代国家の中心は天皇という伝統的な権威で、国民統合の役割も担っていた。
日本の近代国家のイデオロギーは近代的で復古的という二面性を持っていた。近代の天皇制は伝統社会を変容して成立したものであったが、それは古代の天皇制の復活(王政復古)と標榜された。またそのイデオロギーは一方で、実用主義と理想主義という二面性も持っていた。実用面では西洋の近代文明を積極的に受け入れるべきことを奨励したにも関わらず、理想面では西洋の物質主義を離れた道徳観が鼓吹された。後者の理想主義は徐々に復古主義的傾向を強め、日本の独自な国民性という集団的意識に結びつき、「国体」概念となった。第二次世界大戦後においても、神話的な外見を失いつつこのような集団的意識の基本構造は維持されている。ただしそれは日本の国民すべてに積極的に支持されているわけではなく、非常に緩やかなイデオロギーとして存在している。
[編集] さまざまな日本文明の把握
主に近現代を射程に捉えた比較文明論の把握以外にも、日本の文明社会をさまざまな視点から捉えるものがある。
[編集] 文明史論の中の日本文明
文明を主要な対象とする学問分野としては、比較文明論(比較文化論)や文明史(文化史)が知られる。文明史の分野で日本の文明社会を論じた人物としてはヤスパースやトインビーが知られる。
ヤスパースは日本を軸文明の周辺にある非軸文明と定義したが、そのような周辺社会である日本が近代化に成功した点に注目した。トインビーは地域的文化圏を、独立文明と衛星文明からなる中心-周辺関係で捉えようとし、日本を中国文明の衛星文明として位置づけた。
[編集] ハンチントンの文明衝突論
日本を一つの文明圏と看做すサミュエル・ハンチントンが1999年に『文明の衝突』を著した。ハンチントンによれば、冷戦による東西の衝突が終わった現代は、西欧文明、中華文明、日本文明、イスラム文明、ヒンドゥー文明、東方正教会文明、ラテンアメリカ文明、アフリカ文明の8つの文明が衝突する時代である。
[編集] 保守主義言論の動向
歴史教科書問題や歴史認識問題に関連して、自由主義史観を標榜する新しい教科書をつくる会など保守主義言論の側から提唱されている、やや民族主義的な日本文明論がある。日本の文明社会をより古く伝統的で独自なものであると述べ、その美風や他の文化に対する独自性を強調するものである。
[編集] 中西輝政
この観点での代表的著作は中西輝政の『国民の文明史』である。中西はアルフレッド・ヴェーバーの文化社会学的アプローチに依拠しつつ、日本に独自の文明過程[1]を想定する。日本社会には無変動的で安定した文明過程と突発的で瞬発的な文明過程の2種類が存在し、それが歴史上に交互に繰り返されることで、独自の社会を築いてきたという。この文明過程を中西は縄文時代から存在するものであるとし、日本の伝統文化の構造が非常に古く伝統的であることを強調している。また「日本文明」における天皇の役割を重視し、日本の文明社会に必要不可欠なものであったと述べている。
[編集] 縄文時代
近年進んだ縄文時代の考古学的研究成果を踏まえて、日本の縄文時代を「縄文文明」と呼称し、長江文明などの古代文明に相当する文明として位置づけようとする論が環境考古学者の安田喜憲から提案され、注目を集めている。
[編集] 東アジアの枠組みで捉える見方
近現代の日本の文明社会の独自性を重視する傾向がある一方で、日本列島と中国大陸や朝鮮半島、ヴェトナムにいたるまでの地域を同一の文化圏で捉える見方がある[2]。東洋史研究や日本の古代史研究では、日本の国家形成や文化構造に中国の古代王朝や朝鮮半島の古代国家の影響を重視する見解が主流である。この視点に立てば、日本の文明社会は周辺国家との交流の中から形成され発展してきたものであると考えることになる[3]。たとえば、天武朝以降に確立され、明治以降の天皇制の象徴体系において重要な位置を占める大嘗祭には、中国古代王朝の祭祀制度の影響があり[4]、また日本の為政者の政治理念にしばしば外来の儒教倫理や仏教思想が取り入れられている[5]。
[編集] 参照文献
記事の執筆にあたっては以下の文献を参照している。
- S・N・アイゼンシュタット著、梅津順一ほか訳『日本 比較文明論的考察』1,2 岩波書店、2004年
- 下川玲子著『北畠親房の儒学』ぺりかん社、2001年
- 玉懸博之著『日本中世思想史研究』ぺりかん社、1998年
- 中西輝政著『国民の文明史』扶桑社、2003年
- 西嶋定生著『古代東アジア世界と日本』岩波現代文庫、2000年
- 濱下武志著『朝貢システムと近代アジア』岩波書店、1997年
- 吉野裕子著『大嘗祭 天皇即位式の構造』弘文堂、1987年
[編集] 関連文献
「日本文明」に関するその他の文献は以下の通り。
- 梅棹忠夫 『日本とは何か―近代日本文明の形成と発展』 日本放送協会出版会、1986年
- 梅棹忠夫 『日本文明77の鍵』 文藝春秋、2005年
- 太田龍 『縄文日本文明一万五千年史序論』成甲書房、2003年
- 川勝平太 『日本文明と近代西洋―「鎖国」再考』 日本放送協会出版会、1991年
- サミュエル・ハンチントン 『文明の衝突』 集英社、1998年、66頁
- 司馬遼太郎 『日本文明のかたち―司馬遼太郎対話選集〈5〉』 文藝春秋、2006年
- 清水馨八郎 『「日本文明」の真価―今、世界が注目する』 詳伝社、2002年
- 竹村公太郎 『日本文明の謎を解く―21世紀を考えるヒント』清流出版、2003年
- 中西輝政 『日本文明の興廃 いま岐路に立つこの国』 PHP研究所、2006年
- 山折哲雄 『日本文明とは何か』 角川書店、2004年
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ 文明過程とは、思想や芸術などの狭義の文化と政治制度や社会制度を媒介するもので、同じ文化や同じ政治体制を取っていても、個々の民族でその社会形態が異なるのは、この文明過程が各々異なるためであるという。
- ^ このような見解の典型的な例としては、古代については西嶋定生『古代東アジア世界と日本』や近世については濱下武志『朝貢システムと近代アジア』などが挙げられる。
- ^ 日本の文明社会を特色づける種々の文化様式はその受容過程において、東アジアの伝統的な政治社会の枠組みにしたがっているように見える(西嶋定生『古代東アジア世界と日本』pp.3-10参照)。ただしこのことは日本の文明が独自のダイナミクスを持っていることと矛盾しない。日本の文明社会の独自性は、外来文化の多大な影響を受け、それをきわめて有効に摂取しつつ、なおアイデンティティの上で他の文明社会との間に明確な懸隔を維持していることにある(アイゼンシュタット『日本 比較文明論的考察 1』pp.21-23参照)。
- ^ 吉野裕子『大嘗祭』参照。
- ^ これは中国大陸の王朝とは政治上のつながりが希薄であった時期にも顕著に認められる。同時に神道思想など日本独自の思想をうまく接合して、日本独自の歴史観・政治観を形成している(玉懸博之『日本中世思想史研究』、下川玲子『北畠親房の儒学』参照)。