日本海中部地震
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日本海中部地震(にほんかいちゅうぶじしん)は 1983年5月26日11時59分57秒に、秋田県能代市西方沖約100kmの地点で発生した地震で、マグニチュードは7.7。秋田市・むつ市・深浦町で最大震度5を観測。
[編集] 概要
- 発生当時、『日本海秋田沖地震』、あるいは『秋田沖地震』の通称も聞かれた。これは気象庁が後日、正式呼称を決定するまでの間に報道各局が便宜上使用する名称によるもの(記録上の名称としては残らない)。
- 青森市農業会館で開かれていた青森県農業政策会議の最中に地震が発生、その模様を青森放送のカメラマンが偶然撮影し(他局は撮影を終えて帰っていた)、大勢の参加者が立ち上がれなくなり、椅子が動く生々しい映像が世界に配信された。
- 日本海側で発生した最大級(当時)の地震で、山形県・秋田県・青森県の日本海側で10メートルを超える津波による被害が出た。地震そのものより津波被害によってその名を記憶される災害である。
- 地震により発生した津波などにより国内で104名の犠牲者を出した。対岸の韓国でも死者1名、行方不明者2名と報道された。
- 津波は地震発生後約7分で青森県深浦町に引き波として到達、さらに8分後第1波として到達している。最大潮位は65cmであった。
- 遠足で男鹿市の加茂青砂を訪れていた旧北秋田郡合川町(現北秋田市)の町立合川南小学校の児童が多数巻き込まれたことは、遺留品の散乱する現場の空撮映像が全国ニュースで配信されたこともあって県民はもとより国内に大きな衝撃を与えた。この地震まで、秋田県では大規模な津波被害の記録は無かった。
- 能登半島の石川県輪島市では、当日午前中、漁港近くで別の取材をしていたNHK金沢放送局の記者が津波襲来時の撮影に成功。市内中心部を流れる輪島川河口を、高さこそ1m強ながら凄まじいエネルギーで逆巻いて遡上する激しい波の姿や、河口に隣接する輪島漁港内から逃げ遅れて波にまかれ転覆する小型刺し網漁船とからくも脱出する船長の姿など、生々しい映像が津波の現実を明確に全国へ発信し、その映像記録は後々まで研究者の貴重な資料として活用されている。
- 上記の映像のほかに、地元住民や旅行者が当時普及しつつあった家庭用ビデオなどにより津波の克明な映像・写真が多数撮影されており、同年9月30日にNHK放送で『目撃された大津波~日本海中部地震の記録~』として放送された。
- 輪島漁港の様子が放映される一方で、その沖合50km北に位置する舳倉島では、津波警報からわずか5分後に津波が襲来、海抜僅か11mとあって家屋等の被害も甚大であったにもかかわらず、満足な通信設備のなかった事や幸いにも島民に死者がでなかった事などもあり殆ど伝えられる事はなかった(地元の教師が撮影した津波の映像は上記のNHKの番組で放送されている)。小規模だった堤防は役に立たず、小さな漁港は漁網や流入物で接岸できなくなり、満足な重機もなかった上に支援に入ることもままならなかった島では、人力中心の復旧となり、完全復旧するには夏までかかった。
- 津波は遠く山陰や九州北部にまでも到達し、島根県の江川などでも中流で川を遡る50cm以上の波が、はっきりと空撮で報道された。ロシアでも沿海州で観測されている。
- 死者104名のうち、実に100人が津波による犠牲者という事で特筆される。なお、火災被害の報告は一般家屋では無かったが、秋田市の東北電力秋田火力発電所内の原油の浮屋根タンクで火災が発生し、新潟でも石油タンクが石油の溢流を起こした。これらは、長周期地震動によるスロッシングによるものであることが後にわかった。また、液状化現象などが発生した。
- この地震による全壊家屋は9000戸、半壊家屋は2100戸に達し、被害総額は1482億3827万円余。第二次世界大戦下の土崎空襲以後、秋田県を襲った最大の災害であった。
- 5月26日は、秋田県の「県民防災の日」になっている。
- 奇しくも20年後の同日(2003年5月26日)に『東北地震』が起きている。
[編集] 参考文献
- 『 秋田県地震対策基礎調査報告書 』1982年 東京大学地震研究所 宇佐美龍夫 他著 東京大学地震研究所蔵