朴槿恵
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朴槿恵 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 박근혜 |
漢字: | 朴槿惠 |
平仮名: (日本語読み仮名): |
ぼく・きんけい |
片仮名: (現地語読み仮名): |
パク・クネ |
ラテン文字転写: | Park Geunhye |
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朴 槿恵(パク・クネ、1952年2月2日 - )は、大韓民国の政治家。軍事政権の流れを汲む保守派ハンナラ党前代表。パク・クネとあるが、実際に姓名を呼ぶときは「パックネ」となる。
目次 |
[編集] 人物像
- 韓国の第5代~第9代大統領・朴正煕の長女。1974年8月15日に文世光事件で母親の陸英修が暗殺されたため、急遽留学先のフランスから帰国し、1979年に朴正煕暗殺事件で父親がKCIA長官に暗殺されるまで、ファースト・レディー役を務めた。
- 金大中がチャン・ドゥック・ルオンベトナム国家主席に、韓国軍のベトナム戦争参戦を謝罪した際、『これは6・25(朝鮮戦争)のとき、大韓民国の自由民主主義を守るために戦った16カ国の将軍や指導者が金正日委員長に「不幸な戦争に参加して北韓国民に苦痛を与えたことを謝過する」というのと同じくらいとんでもないこと』と批判した[1]。父親の派遣軍が引き起こしたベトナム人虐殺に付いてはコメントしなかった。
- 2004年3月23日、ハンナラ党の代表に就任した。韓国の女性党首は39年ぶり。2004年4月の総選挙でも達城郡の選挙区から当選している。この選挙では、大統領弾劾を可決したハンナラ党は惨敗が予想されたが、朴槿恵代表の知名度と人気で小幅の後退にくいとめ、「ハンナラ党のジャンヌ・ダルク」と呼ばれる。
- 2006年5月20日午後、遊説中にカッターナイフで男に切り付けられ、顔に10センチの傷を負い60針縫う手術となった[2]。この際、盧武鉉大統領支持団体(ノサモ)からは、「60針を縫ったのは整形手術」[3]という声が挙がったが、それが逆に反感を呼び大統領支持派に対する批判拡大へとつながった。なお犯人の背後関係については、検察・警察の合同捜査本部による捜査の結果、「単独犯」との結論に達した[4]。
- 襲撃事件による同情票や盧武鉉政権の経済失政に対する批判、さらに襲撃事件に対する大統領支持団体の「整形発言」への反発もあって2006年5月31日に行われた統一地方選挙ではハンナラ党を地滑り的勝利に導いた。この結果、同じハンナラ党の李明博に次ぐ2007年の韓国次期大統領選の有力候補としての地位を固めつつある。
[編集] 略歴
- 1952年 - 大邱生まれ。
- 1967年 - 聖心女子中学校(ソウル)卒業。
- 1970年 - 聖心高等学校(ソウル)卒業。
- 1974年 - 西江大学校電子工学科卒業、フランスへ留学するが、母が射殺され帰国(文世光事件)。
- 1979年 - 父が殺害される(朴正煕暗殺事件)。
- 1982年 - 嶺南大学校理事長就任。
- 1998年 - 国会議員初当選、ハンナラ党副総裁就任。
- 2002年 - ハンナラ党離党後、平壌を訪問し金正日と会見、板門店経由で帰国。韓国未来連合結成するも、後にハンナラ党に復帰。
- 2004年 - ハンナラ党代表就任(3月23日)、党代表最高委員選挙に対等な立場で臨むためとして代表辞任(7月5日)。党代表最高委員に再選(7月19日)。
- 2005年 - 北京を訪問し胡錦濤国家主席と会見。
- 2006年 - 日本を訪問し小泉純一郎首相と会談。訪韓した北朝鮮による拉致被害者家族会・横田滋代表らと会見(5月17日)。ソウル市長選応援の際に暴漢に顔面を切り付けられ負傷(5月20日)。次期大統領選挙の準備のため、ハンナラ党代表を辞任した(6月18日)。次期大統領候補選出のための党内選挙への出馬を正式に表明(10月1日)。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
[編集] 脚注
- ^ (朝鮮語)『大統領も “ごめんなさいベトナム”』、ハンギョレ21 第374号、2001年8月28日。
- ^ 『<朴槿恵テロ事件>急所避けて「明るいほほえみ」は無事』、中央日報、2006年5月22日。
- ^ 『ノサモ代表、朴槿恵氏手術を「整形」と表現 与野党から批判殺到』、東亜日報、2006年5月23日。
- ^ 『「朴槿恵代表襲撃事件は単独犯行」暫定結論』、中央日報、2006年5月26日。