杉永政信
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杉永 政信(すぎなが まさのぶ。1961年5月5日 - )は福井県出身のプロ野球選手(投手)、プロ野球審判員。
[編集] 来歴・人物
鯖江高から1979年のドラフト1位(木田勇の外れ1位)で横浜大洋ホエールズに入団。その際、「300勝する」と宣言したにもかかわらず、1985年に1軍で3試合登板したのみで(しかもストレートの球速が120キロ前半ほどであった)、その年のオフに戦力外通告を受け現役引退(通算成績は3試合2イニング、0勝0敗0S、防御率4.50)。翌年打撃投手となるものの1年で退団し、1987年、ブリンクマン審判学校を経て、セントラル・リーグ審判部入局した(最初は東京審判部所属だったが後に関西審判部転属となり現在に至る)。2006年終了時までの通算試合出場数は1343、日本シリーズ出場1回、オールスター出場2回。
審判員袖番号は16(1988年の初採用からつけている)。
190cm近い長身であり、日本プロ野球審判史上有数の巨漢審判である。責任審判を任される機会も増え、これからますます研鑽を重ねていくべき審判である。
[編集] 杉永審判絡みのトラブル
- 1999年7月18日、阪神甲子園球場での阪神対巨人戦で、6回表、2死2塁で巨人・高橋由伸外野手のゴロを一塁手がさばき、カバーに入った阪神・ダレル・メイへ送球。タイミングはアウトであったが、杉永(一塁塁審)はメイが一塁ベースに触塁してないとして「セーフ」の判定で阪神は1点を失った。この判定に激怒したメイは杉永の胸を突いて退場処分となり、出場停止となった。試合は3対2で巨人の勝利となった。
- 2004年の日本シリーズ第1戦・中日-西武戦で、五回裏中日の攻撃、一死一塁。打者谷繁元信の打った打球は捕手前のゴロとなった。野田浩輔捕手が捕球し、橘高淳球審は野田が打者走者谷繁に触球したと判定し、アウトを宣告した。野田は二塁へ送球。橘高のアウトの宣告が聞こえていなかったのか、二塁塁審の杉永は一塁走者に二塁フォースアウトを宣告した。中日の落合博満監督は抗議し、「打者走者に対する触球によってアウトが宣告されたのなら、二塁はタッグプレイになる。一塁走者はアウトではない」と主張した。確かに橘高が打者走者のアウトを先に宣告しているので、一塁走者のフォースの状態は解除されているから、二塁ではタッグプレイが行わなければならない。このため、審判団は協議の上、杉永のフォースアウトの判定を取り消し、二死二塁からの再開を決めた。しかし、西武の伊東勤監督がこれに対して「一度審判員がアウトといったのだから」とこの決定に対して異議を唱える。橘高球審は場内アナウンスを行うが、「野田選手のプレイについて伊東監督に説明していますので、しばらくお待ちください」という曖昧なものであった。この間49分試合が中断、最後は橘高球審と杉永二塁塁審が場内アナウンスで謝罪するという異例の事態となった。この件でコミッショナーからは厳重注意を受けた。
- 2005年のシーズン中の時点では禁止されていなかった2段モーションであるが、5月26日、東京ドームでの巨人対ロッテ戦で、2回裏、巨人・清水隆行に対するロッテ・久保康友の投球について、二塁塁審の杉永が2段モーションを指摘。ロッテ監督・ボビー・バレンタインは「何かルールブックに載っていない、まったく新しいルールを作ろうとした」と吐き捨てたが、久保は「逆に巨人がそこまでして崩そうとしてくる。自分としては光栄」と気にしていなかった。また、翌々日の千葉マリンスタジアムでのロッテ対横浜戦では、杉永は球審だったが、9回裏に横浜・マーク・クルーンに対しても同様の指摘をした。160km/hを目指していたクルーンは指摘された後は明らかに球速がダウンし、「よく分からない。みんなが(解決法を)考えてくれると思う」と淡々と話した。横浜監督・牛島和彦も「アンフェアと言われて頭にきた。ルールに書いてあるのか」と激高した。
- 2006年7月9日、広島市民球場での広島対巨人戦で、9回裏、2アウト一塁の場面で、走者の、井生崇光がアウトと勘違い。ベンチに戻ろうとしたところで巨人の李承燁がタッチした。しかし、杉永(二塁塁審)がタイムを宣告しており、巨人監督・原辰徳の猛抗議も受け入れられなかった。しかも当の本人の井生はタイムをかけていなかった。試合は、このときのバッター東出輝裕のセンター前タイムリーヒットで、広島が勝利した。