谷繁元信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
[[Image:||谷繁元信]] |
|
愛称 | |
国籍 | ![]() |
出身地 | 広島県庄原市 (旧比婆郡東城町) |
出身校 | 江の川高等学校 |
誕生日 | 1970年12月21日 |
身長 | 177 cm |
体重 | 83 kg |
血液型 | A型 |
守備位置 | 捕手 |
打席 | 右 |
投球 | 右 |
背番号 | 27 |
年俸 | 2億1000万円 |
デビュー年 | 1989年 |
キャリア | 1989年- |
所属球団 | 中日ドラゴンズ |
前所属球団 | 横浜ベイスターズ |
Template |
谷繁 元信(たにしげ もとのぶ、- )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手。ポジションは捕手。
目次 |
[編集] 来歴・人物
阿南準郎の様なガッツ溢れる性格の持ち主で、強肩強打で鳴らす。中国山地の奥深い島根県、岡山県に隣接する広島県比婆郡東城町(現庄原市)の出身。島根・江の川高校では夏の甲子園に2度出場。特に1988年夏には島根県予選で、全5試合の全てにホームランの計7本を放ち甲子園大会でもベスト8に進出。強打の捕手として、東の江藤(現西武)、西の谷繁と称された。
高校通算本塁打42本の記録を残して、1988年ドラフト1位で横浜大洋ホエールズに入団。プロ1年目となる1989年は、下関球場で行われたオープン戦で巨人・斎藤雅樹から本塁打を放つなど打撃を買われ、高卒捕手としては記録的な開幕一軍入りを果たし、公式戦初打席で初安打を放つなど期待を持たせたが、最終的には80試合、.175(154打数27安打)、3本塁打という成績に終わった。 1990年須藤豊が監督に就任すると、西武から獲得した秋元宏作と併用されることで第一捕手として辛抱強く使われていたが、リードにも打撃にも目立った向上が無かったため、1992年須藤が休養し江尻亮ヘッドコーチが監督に昇格すると、一時出場機会を剥奪されている。 1993年に横浜大洋ホエールズから横浜ベイスターズに球団名が変わり、近藤昭仁が監督に、バッテリーコーチに大矢明彦が就任すると、大矢の指導でリードを含めた守備が向上し、それに伴って本来の強打を取り戻すようになって、徐々に正捕手の座を固めていった。大矢が監督に昇格した1996年・1997年は、2年連続で盛田幸妃と開幕戦先発バッテリーを組む(1997年は後に自身のホームグラウンドとなるナゴヤドーム初の公式戦であった。1回裏立浪和義が球団史上初の開幕戦初回先頭打者本塁打。同球場で初めて被本塁打を記録したバッテリーとなる)1998年横浜が日本一に輝いたシーズンではマシンガン打線の一翼を担い、攻守の要としての地位を確立。同年には強肩と攻撃的なリードで強力投手陣を引っ張ったことが評価されゴールデングラブ賞を受賞している。
2001年には自己最多のシーズン20本塁打を打ち、その年のオフにFA宣言を行う。当初はアメリカメジャーリーグ指向だったが、条件面等で折り合うことができず、中日へ移籍することになった。これにより自身と同じく高校3年でドラフト1位で指名され入団し、長年正捕手としてチームを支えてきた中日の中村武志が出場機会を求めトレードを直訴、谷繁入団直後の12月28日に金銭トレードで横浜に移籍、結果的に両チームの正捕手が入れ替わる形となった。2004年、中日の正捕手として日本シリーズに出場。第3戦で満塁ホームランを放つ。その次の打席、再度満塁で打席に立つが、捕手の前に転がり止まる捕ゴロ。悪い流れが続き、その後西武のカブレラに満塁ホームラン返しを被弾。一試合2本の満塁弾は日本シリーズ初である。
近年、打率が低下傾向。フルスイングして空振り三振というシーンが多くなっている。そのため、02・04・05・06年の計4回もセ・リーグ規定打席到達者の中での最低打率を記録している。しかしボールを遠くに飛ばすパワーは健在。毎年コンスタントに2桁本塁打を記録している。また、満塁時には高い成績を残している。
打順は基本的に7番もしくは8番であるが、中日に移籍してからは主力打者の離脱等でチーム全体の打撃力が低下した時期に5番や6番で起用される試合も増えた。2006年は低打率にもかかわらず何故か3番で起用された事もあった(06年のケ-スは同年6月25日の巨人戦で怪我をした福留の代役と見られている。04年も3番で起用されることがあった)。
打撃ではこのようにあまり率は高くないが、リード面などで、投手陣、首脳陣の信頼は大きく、投手王国と呼ばれている中日の投手陣を引っ張っている。
2006年にはWBC日本代表に選ばれ、2次リーグの米国戦ではスタメンマスクをかぶった。
2006年7月26日の対阪神戦で捕手としては史上4人目の通算2000試合出場を達成。また、自身1500試合出場の時も勝利で飾っているが、川上がノーヒットノーランを達成した日でもある。FA制度導入以降、最短で三度取得している唯一の選手である。捕手という負担の大きいポジションにも拘らず、この記録は快挙といえる。
2006年シーズン終了時点で、通算三振数が1332となり、王貞治の持つ1301を抜いて歴代10位になった。
[編集] エピソード
- 「広島出身でありながら島根の高校まで行ったのは野球の越境入学ではなく単に頭が悪すぎて広島県内の高校に入ることが出来なかったから(実際、広島工業高校の入学に失敗している)」「高校入試で0点をとった」「高校入試で、名前の『繁』の字を平仮名で書いた」「高校時代は掛け算ができなかった」等の、どこまでが本当の話か分からない逸話も存在する。また、みずしな孝之の漫画、「ササキ様に願いを」では4以上の数が覚えられず、すべて平仮名でしゃべるキャラクターとなっているのは、横浜大洋ホエールズの遠藤一彦投手(当時)が「谷繁君はリードの覚えが悪い」と言っていた事を、作者がうんと誇張して描いた為である。
- 大洋入団当初はリードの覚えが悪く、いつまでもオムツの赤ちゃんという意味で「パンパース」というあだ名を付けられていた。
- 所属した球団で最初に付けた背番号(大洋~横浜=1・中日=7)を、いずれも監督交代時に新たに就任した監督(横浜=近藤昭仁・中日=落合博満)から「捕手のイメージに合わない」という理由で剥奪されている。ちなみに、就任時の近藤監督は現役時代に1番を付けており、彼の指名により進藤達哉内野手に与えられた(一説によると1番だと防具で背番号が隠れてしまうから8番に変更したとも言われている)。この時は、近藤の後1番を付けていた山下大輔も守備走塁コーチに就任していた。また、中日でも巨人から移籍したやはり内野手の川相昌弘が付けている(落合監督は捕手が一桁の背番号を付ける事に否定的だった)。このため、球団名が「横浜ベイスターズ」になってからの1番のユニフォームは、1992年秋の球団名発表後の秋季練習でしか着用しなかった(鴻野淳基の8番・宮川一彦の25番・進藤達哉の36番・畠山準の49番・石井琢朗の66番もこの時及び同じく新球団名発表後に行われた1992年セ・リーグオールスター東西対抗のみの着用だった)。
- ノーヒットノーラン達成には、現役通算で2度立ち会っている。2002年8月1日の読売ジャイアンツ20回戦(東京ドーム)で川上憲伸、2006年9月16日には阪神タイガースとの首位攻防戦となった同18回戦(ナゴヤドーム)で山本昌をリードして記録達成をアシストした。日本プロ野球史上、複数回ノーヒットノーランを達成した捕手は21人いるが、同年現在の現役選手では谷繁の他、古田敦也(ヤクルト)、矢野輝弘(阪神)の3人(いずれも2度達成)。
- 2006年10月26日1勝3敗で迎えた日本シリーズ第5戦、1-4で3点ビハインドの8回裏の守備時、日本プロ野球において最後の打席となり涙を流しながら打席に立つ新庄剛志に対し「泣くな。全部ストレートでいくぞ」と声を掛けた(新庄談)。実際、この打席は全球ストレートで、新庄は涙にくれながら3球ともフルスイングし、空振り三振に終わった。
[編集] 通算成績(2006年シーズン終了時)
- 打撃成績 2062試合 打率.245(6142打数1506安打)186本塁打 780打点 31盗塁
[編集] タイトル・表彰
[編集] 背番号
[編集] 関連項目
00 前田章宏 | 0 金剛弘樹 | 1 福留孝介 | 2 荒木雅博 | 3 立浪和義 | 4 J・バレンタイン | 5 渡邉博幸 | 6 井端弘和 | 7 李炳圭 | 8 平田良介 | 9 井上一樹 | 11 川上憲伸 | 12 岡本真也 | 13 岩瀬仁紀 | 14 朝倉健太 | 16 佐藤充 | 17 川井進 | 18 中里篤史 | 19 吉見一起 | 20 中田賢一 | 21 樋口龍美 | 22 藤井淳志 | 23 鈴木義広 | 24 堂上直倫 | 25 新井良太 | 26 小田幸平 | 27 谷繁元信 | 28 田中大輔 | 29 山井大介 | 30 石井裕也 | 31 森野将彦 | 32 中川裕貴 | 33 平井正史 | 34 山本昌 | 35 上田佳範 | 36 デニー | 37 小山良男 | 38 斉藤信介 | 39 清水将海 | 40 西川明 | 41 浅尾拓也 | 42 S・ラミレス | 43 小笠原孝 | 44 ウッズ | 45 森岡良介 | 46 岩﨑達郎 | 47 菊地正法 | 48 沢井道久 | 49 F・グラセスキ | 50 佐藤亮太 | 51 中村一生 | 52 春田剛 | 53 柳田殖生 | 54 鎌田圭司 | 55 福田永将 | 56 中村公治 | 57 英智 | 58 石川賢 | 59 小川将俊 | 60 高江洲拓哉 | 61 久本祐一 | 62 普久原淳一 | 63 堂上剛裕 | 64 清水昭信 | 65 金本明博 | 67 高橋聡文 | 68 長峰昌司 | 69 小林正人 | 70 三澤興一 | 99 中村紀洋
201(育成選手) 加藤光教 | 202(育成選手) 竹下哲史 | 203(育成選手) チェン | 220(育成選手) R・クルス | 222(育成選手) E・ラミレス 66 監督 落合博満 | 81 高代延博 | 80 森繁和 | 89 高橋三千丈 | 88 高柳秀樹 | 78 小林聖始 | 77 宇野勝 | 87 仁村薫 | 72 田村藤夫 | 90 三木安司 | 85 二軍監督 辻発彦 | 84 早川和夫 | 75 石嶺和彦 | 83 音重鎮 | 86 古久保健二 | 71 川相昌弘 | 92 勝崎耕世 | 74 風岡尚幸 | 79 長谷部裕 | 82 奈良原浩 | 76 近藤真市 | 93 宮前岳巳 | 91 塚本洋 |
1 岩村明憲 | 2 小笠原道大 | 3 松中信彦 | 5 和田一浩 | 6 多村仁 | 7 西岡剛 | 8 今江敏晃 | 9 金城龍彦 | 10 宮本慎也 | 11 清水直行 | 12 藤田宗一 | 15 久保田智之 | 17 福留孝介 | 18 松坂大輔 | 19 上原浩治 | 20 薮田安彦 | 21 和田毅 | 22 里崎智也 | 23 青木宣親 | 24 藤川球児 | 25 新井貴浩 | 27 谷繁元信 | 31 渡辺俊介 | 40 大塚晶則 | 41 小林宏之 | 47 杉内俊哉 | 51 イチロー | 52 川﨑宗則 | 59 相川亮二 | 61 石井弘寿/馬原孝浩 |
89 監督 王貞治 | 84 武田一浩 | 85 辻発彦 | 86 鹿取義隆 | 87 大島康徳 | 88 弘田澄男 |