土井淳
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土井 淳(どい きよし 1933年6月10日 - )は、プロ野球選手・プロ野球監督。岡山県岡山市出身。
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[編集] 来歴・人物
- 合併
秋山登と土井、長年にわたってバッテリーを組むことになる二人は、土井の通っていた岡山県立第一商業と秋山の通っていた県立第二商業が、49年8月16日に学校改革(6-3-3制)によって合併したことから顔をあわせるようになった。この頃の土井はまだショートだった。
- 捕手転向
50年9月に岡山球場で、秋山と土居の岡山東商と、怪童の異名を持つ中西太の高松一高の試合が行われた。そして5回表に中西の放った打球が三遊間に飛んだ、この試合でショートを守っていた土井は逆シングルで捕球すると、一塁に矢のような送球を送り、中西をアウトにした。話は数時間後に跳ぶ、試合後に松三監督に呼び出された土居はこう言われた、「なぁ土井、お前明日から捕手に転向しろ」、「どうしてですか?」、「さっき4番打者のバカ力のゴロを捕球した後の小さな送球動作と鉄砲肩、この二つの利点を生かすには遊撃手より捕手のほうがいいと思うんだよ」
- 中西太に敗れる
土井が捕手に転向して一年後の51年夏の甲子園。その1回戦で土井を捕手に転向させた中西太が率いる高松一校と対戦したが、その中西にランニングホームランを打たれるなど3対12で惨敗した。
- 明治大学へ
秋山の明大受験のとき、土井はすでに住友金属から内定をもらっていたが、「東京六大学に是非行け」という周囲の進めで、推薦で早稲田大学を受験することになり、早大監督の森(のちに大洋球団社長)にもOKをもらったが、進学適正検査を受けていなかった土井は早大を受験することが出来ず、検査の必要が無い明大を受験することになった。もし土井が早大に入っていたら、秋山との黄金バッテリーは解消していたことになる。 島岡吉郎監督に「土井と高田繁だけは殴っていない」と言わしめた島岡門下の優等生であった。
- アジアチャンピオン
明大では六大学リーグでは2年秋、3年春、4年春と3度の優勝を果たした。4年生時の12月にはマニラで開かれたアジア大会に出場、見事に6勝1分けで優勝した。このときのチームは、同じ明大の秋山、近藤和彦、立教大学の長嶋茂雄ら、そうそうたるメンバーが揃い、16人の選手中14人がプロに進んでいる。
- 大洋入団
プロ入り時には、西鉄ライオンズの三原脩監督(のちの大洋監督)が「土井をどうしても獲ってくれ。」といっていたが、土井は秋山と「せっかくここまで縁があってきたのだから、プロもバッテリーで挑戦しよう」と決めていた。明大3年時には巨人との約束ができていたが、秋山の腰の状態を気にした巨人が「一回白紙に戻す」、と言った。その空白を大洋が突いて秋山、土井を含む5人を明大から獲得した。
- ダンス
名捕手として鳴らした土井を支えたのは「ダンス式リード」と呼ばれる配球術だった。「スロー、スロー、クイック」はワルツのリズムで変化球、変化球、ストレート。「スロー、スロー、クイック、クイック」はブルースのリズムで、変化球、変化球、ストレート、ストレートという具合だ。
- 擬音
巨人の長嶋はハーフスイングをごまかすのが上手だった、土井はこれを何とかストライクに取れないかと思案し、ある妙案を思いつく。それは口でファウルチップの音を出すことだった。そして実際に長嶋を2ストライクに追い込み、ハーフスイングをしたときに土井はこの作戦を実行した。すると審判はファウルチップしたと勘違いして三振をコールした。長嶋は「えっー振ったかな?、振ってないよな土井さん」、と怪訝そうな顔をしていた。土井が密かに「擬音捕球法」と名付けていた。
- 棒立ち
土井は「棒立ちタッチ法」も多用した。バックホームの送球が目の前に迫ってくるまで、知らぬ顔して棒立ちになり、ランナーが安心してスピードを緩めると、土井はいきなり捕球体制をとり、ランナーをタッチアウトにした。土井の持論は「捕手というのは、だます、盗む、殺す、の3要素で成り立つポジションなんです」
- 耳目
土井はマウンドに顔を向けたまま、一塁に矢のような送球でランナーを刺すのを得意とした。相手からは「土居の耳には眼がついている」といわれ恐れられた。土井はその技術を習得するために移動時には必ず急行列車に乗り、通過駅の看板を横目で読んで横目をきかす練習をした。
- 強肩
強肩で知られた土井は、盗塁を刺すのはボールをキャッチしてから0.3秒の間に、ボールの縫い目に二本の指をかけられるかどうかが勝負だという、「90%は縫い目に引っかかりますね、捕球してからボールを離すまでほんの一瞬だけど、この一瞬の間に2本の指はスリの名人の指先みたいに、またムカデの足のように微妙な動きをするんです」、また土井はこんな言葉も残している「大洋に入団して2年目かな、二塁に送球しようとしたら、ベースの30センチぐらい上に、30センチ四方の空気が光って見えるんですね、それを標的に送球すればいい」、あの江夏豊も外角一杯のラインが光って見えたと言うが、土井も同じ境地に到達していた。
- ノーサイン
ある時期に土井の読みが外れ続けたことがあった。土井は秋山に「サインなしで、お前の自由に投げてくれ」、といい、三ヶ月間にわたって秋山のシュートや、カーブをノーサインで捕球し続けた。
- その後
なお、秋山の死後に球団OB会の会長を務めている(現任)。また、「土井淳の元気UP!朝一番!」(ニッポン放送制作。但し同局では放送せず一部の地方局で放送)のパーソナリティを2006年9月まで務めた。また同じ土井繋がりで元巨人選手の土井正三とともにカメラ量販チェーン「カメラのドイ」のCMに出演したこともある。
[編集] エピソード
- 高校は岡山県立第一商業に通っていたが秋山の通っていた県立第二商業と合併し岡山東商高になった。
- 明大時代の2年秋、3年春、4年秋の3回リーグ優勝を経験、3年秋、4年春に連続してベストナイン(捕手)を獲得。
- 1954年 - 第3回全日本大学野球選手権大会で優勝。
- 1955年 - 第4回全日本大学野球選手権大会でも優勝。
- 1956年 - 大洋に入団、この年から7年連続でオールスターに出場。
- 1960年 - 正捕手として大洋初の優勝と日本一を経験 ベストナイン(捕手)を受賞。
- 1968年 - 現役引退。
- 1969年 - この年から1973年まで大洋でコーチを務めた。
- 1978年 - ヘッドコーチとして大洋に復帰。
- 1980年-1981年 - 大洋の監督をつとめたが1980年4位、1981年6位と成績はふるわなかった。1981年は9月24日限りで休養。
- 1985年 - 阪神タイガースのヘッドコーチとして優勝。
[編集] 略歴
[編集] 背番号
- 25(56)
- 39(57~72)
- 63(73)
- 82(85~87)
[編集] 生涯成績
年度 | 所属チーム | 背番号 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗塁死 | 犠打 | 犠飛 | 四死球 | 三振 | 併殺 | 失策 | 打率 |
1956 | 大洋 | 25 | 85 | 232 | 11 | 40 | 10 | 1 | 2 | 62 | 13 | 2 | 2 | 7 | 1 | 21 | 33 | 7 | 10 | .190 |
1957 | 39 | 111 | 262 | 22 | 65 | 12 | 1 | 4 | 91 | 25 | 5 | 2 | 2 | 1 | 32 | 45 | 8 | 10 | .248 | |
1958 | 108 | 360 | 34 | 87 | 12 | 1 | 7 | 122 | 38 | 6 | 7 | 13 | 2 | 42 | 51 | 10 | 7 | .242 | ||
1959 | 102 | 305 | 23 | 58 | 5 | 3 | 2 | 75 | 18 | 4 | 4 | 9 | 1 | 29 | 55 | 10 | 7 | .190 | ||
1960 | 117 | 269 | 13 | 57 | 10 | 0 | 2 | 73 | 22 | 4 | 6 | 16 | 0 | 33 | 46 | 2 | 10 | .212 | ||
1961 | 115 | 204 | 6 | 40 | 6 | 0 | 0 | 46 | 12 | 3 | 3 | 9 | 1 | 13 | 26 | 2 | 4 | .196 | ||
1962 | 99 | 141 | 6 | 28 | 4 | 1 | 0 | 34 | 9 | 2 | 1 | 6 | 0 | 12 | 23 | 3 | 7 | .199 | ||
1963 | 118 | 244 | 21 | 59 | 5 | 0 | 1 | 67 | 11 | 0 | 3 | 10 | 2 | 24 | 30 | 5 | 5 | .242 | ||
1964 | 60 | 60 | 3 | 12 | 2 | 0 | 2 | 20 | 5 | 0 | 0 | 3 | 1 | 5 | 6 | 0 | 0 | .200 | ||
1965 | 72 | 64 | 5 | 9 | 2 | 0 | 0 | 11 | 2 | 1 | 0 | 3 | 0 | 5 | 14 | 3 | 1 | .141 | ||
1966 | 61 | 95 | 7 | 18 | 3 | 0 | 0 | 21 | 4 | 0 | 1 | 1 | 0 | 4 | 13 | 1 | 2 | .189 | ||
1967 | 71 | 105 | 4 | 26 | 3 | 0 | 2 | 35 | 9 | 0 | 2 | 10 | 0 | 8 | 18 | 2 | 1 | .248 | ||
1968 | 19 | 28 | 2 | 5 | 0 | 0 | 1 | 8 | 8 | 0 | 0 | 3 | 0 | 2 | 7 | 1 | 2 | .217 | ||
通算 | 1138 | 2364 | 157 | 508 | 74 | 7 | 23 | 665 | 176 | 27 | 31 | 92 | 9 | 230 | 367 | 54 | 66 | .215 |
[編集] 日本シリーズの成績
年度 | 所属チーム | 背番号 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗塁死 | 犠打 | 犠飛 | 四死球 | 三振 | 併殺 | 失策 | 打率 |
1960 | 大洋 | 39 | 4 | 12 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | 1 | 0 | 1 | .167 |
[編集] タイトル・表彰
- ベストナイン (1960年)
- オールスター戦出場 (1956年~1962年)
[編集] 関連項目
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- ※1 カッコ内は監督在任期間。
- ※2 1981年は9月24日まで指揮。
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