松山城 (伊予国)
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松山城大天守(右奥)、小天守(左)、紫竹門(左手前) | |
通称 |
金亀城、勝山城 |
城郭構造 |
連郭式平山城 |
天守構造 |
連立式層塔型 |
築城主 | |
築城年 | |
主な改修者 | |
主な城主 |
加藤氏、松平(久松)氏 |
廃城年 | |
遺構 |
現存天守・櫓・門、石垣、堀 |
位置 |
松山城(まつやまじょう)とは、愛媛県松山市の中心部、勝山山頂に本丸を構える城郭。別名「金亀城」「勝山城」。天守は大天守と小天守・南隅櫓・北隅櫓を渡り櫓(廊下)で結んだ連立式城郭で、現存する天守としては最も新しいものである。姫路城、和歌山城とともに、日本三大連立式平山城に数えられる。国指定史跡。国の重要文化財(建造物)。
[編集] 沿革
1602年(慶長7年)、加藤嘉明(賤ヶ岳の七本槍の一人)により築城開始。なお、加藤嘉明はこの時を持ってこの地を「松山」と呼ぶこととし、松山という地名が公式に誕生した。松前城の松と勝山の山の一文字ずつを取り松山とした。
その後、蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)の治世を経て、松平定行に代わり、以後、松山藩は松平家の所領となり明治維新を迎える。
築城当時の天守は5層であったが、後に3層に改築されている。(これには多くの説があるが、基礎が弱いため3層に改築されたとされている)
全国的にも珍しい戦略的に意味がない天神櫓がある。天神櫓には久松家の祖先とされる菅原道真が祀ってある。艮の方角に位置し、祖先の霊廟であるとともに城の守護神としての意味が与えられていたと思われる。
天守は1784年(天明4年)に落雷により焼失。幕末の1854年(安政元年)時の藩主・松平勝善により再建。その後は1873年(明治6年)の廃城令による破却に遭わなかったが、また昭和に入り放火・空襲による焼失が2回あったが、戦後の昭和40年代に復元され現在に至る。1935年(昭和10年)に国の重要文化財(城郭)に指定されている。1952年(昭和27年)には国の史跡に指定された。
1923年(大正12年)久松家(明治に入って松平家が姓を返上し旧姓に戻した)より松山市に寄贈され、以後、松山市の所有となっている。
1955年(昭和30年)にはロープウェイが、1968年(昭和43年)には登山リフトがそれぞれ設置され、松山市を代表する観光地の一つとなっている。
2004年(平成16年)10月より行われていた天守ほか6棟の改修工事は2006年(平成18年)11月末に終了した。