桂久武
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桂 久武(かつら ひさたけ、天保5年5月28日(1834年7月4日) - 明治10年(1877年)9月24日)は幕末の薩摩藩家老、明治初期の政治家。父は島津氏分家・日置島津家当主の島津久風、母は同じ島津氏分家である末川家の娘。長兄は、第29代藩主島津忠義の主席家老島津久徴、次兄は、お由羅騒動で犠牲となった赤山靱負。
安政2年(1855年)に同じ島津氏分家である桂氏の養子となる。その後、造士館演武係方など要職を務めるが、兄・久徴が島津斉彬派家老であったために、斉彬の死の直後の文久元年(1861年)には大島守衛方・銅鉱山方に左遷される。このころに流刑中であった西郷隆盛と親交を結ぶ。
元治元年(1864年)、大目付となり小松帯刀らと共に藩論の統一に貢献、慶応元年(1865年)には家老に昇格、上洛して薩長同盟の提携に尽力する。
明治新政府では明治3年(1870年)に鹿児島藩大参事となり藩政トップとなり、明治4年(1871年)には都城県参事、豊岡県権参事を歴任するが、病気となり帰郷する。帰郷後は霧島山麓の開拓指導や、鉱山開発の指導を行っていた。
明治10年(1877年)、西南戦争で西郷隆盛が挙兵すると西郷側に参軍する。元々従軍するつもりはなかったが、2月17日に西郷の出陣を見送りに行った際に翻意し、家人に刀を取りに帰らせ、そのまま従軍した。従軍後は薩軍の輜重の責任者をつとめた。同年9月24日、城山において戦死した。
[編集] 関連書籍
- 「桂久武日記」(『鹿児島県史料集』26巻所収)
- 「桂久武書簡」(『鹿児島県史料集』30巻所収)