牧野保成
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牧野 保成(まきの やすしげ、? - 永禄6年(1563年)3月)は戦国時代の東三河地方の武将。通称は出羽守、田三郎。牧野成種の子。大剛の勇士であったという。
戦国時代東三河地方の史料として有名な「牛窪記」の中心人物として知られる一方、徳川氏との戦いに敗れて滅亡し、逆に徳川氏に臣従した同族の牧野右馬允の系統が徳川譜代大名・旗本(幕臣)として存続する過程でその歴史が忘れ去られ(あるいは意図的に抹消され)今日ではその事績・死没の事情など諸説あって謎の多い人物でもある。しかし、長岡藩牧野家などにおいても弥彦神社にその神霊を祀るなど長く記憶にとどめ牧野家秘史として伝えられた痕跡が残る。しかしそれも幕末までには、微かな記憶として断片的に伝えられたに留まる。
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[編集] 出自
[編集] 保成は牧野平三郎系
牧野氏系図によれば牧野平三郎系の牧野成興(平三郎、? - 文明8年(1476年))の嫡子牧野忠高(右京進)の養子に牧野成種・成勝兄弟があり、保成は成種の嫡子であるとされる。
[編集] 保成以前の牧野出羽守
「今川記」に寛正6年(1465年)に三河国額田郡にて牢人大場・丸山等(もと東条吉良家人、あるいは幕府御家人とも)の一揆鎮圧を室町幕府より命ぜられた人物として牧野出羽守の名がある。この出羽守は時代的には保成の父・成種または祖父の事と考えられる。
[編集] 応仁の乱の影響と牧野田蔵系の台頭
もと三河守護職家の一色義直に仕えた牧野平三郎成興の子・忠高(右京進)には実子が無かったらしく、これを養子として継いだのが成種であったが、牧野城・瀬木城・今橋城と築城し守護一色氏の郡代一色時家の被官から自立への道を歩む牧野田蔵系に比して、応仁の乱に敗れた西軍一色義直の直臣であった牧野平三郎系を引きついだ出羽守一族は保成のころには守護家一色氏の後ろ盾もなく、その東三河における立場は微妙であったと思われる。
[編集] 事績
天文7年(1538年)牛窪北鉄屋大工の助九郎へ与える免許状に「保成」名義で連署しているのが最古の同時代文書である。
その後、天文15年(1546年)9月28日付の今川家発給文書により今橋城周辺に所領が認められ、また長岡藩主牧野家「御略譜」でも今橋城を今川家より与えられた内容が読みとれる。天文22年(1553年)には御津(宝飯郡御津町)の大恩寺阿弥陀堂の棟札に牧野出羽守保成と記銘し、息子の田三郎成元・弟の牧野右馬允成守とともに同阿弥陀堂の再興寄進の大旦那を務めた。
同時代文書は無いが、諸記録に享禄2年(1529年)宝飯郡長山村の牛窪に牧野右馬允と共に新城(いわゆる牛久保城)を築造したとされる。また『牛窪記』には、牛久保城主は、牧野保成とある。 しかし、保成自身がこの新城・牛久保城の城主と成ったかどうかは明確ではない。後世の寛政重修諸家譜等には牧野氏勝(成勝・民部丞)・牧野貞成(民部允・右馬允・新二郎、成守とも)・牧野成定(右馬允・新二郎)と相伝されたことになっている。
また、牛久保には古城としての牛窪城が在ったともいい、あるいは近隣の大聖寺と並ぶ長山一色城が有り、これを後に牛窪城とも称したともいうので保成もそのいずれかを居城としていたのかもしれない。 あるいはまた、東三河の国府があった宝飯郡の国府(こう)周辺(久保村など)にもかつて牧野一族の居住が伝えられ(永正14年(1517年)11月24日銘、久保神社棟札)、一色氏時代の守護所がこの付近にあったという説もあるので(『豊橋市史』310-312頁)、かつて東三河の中心地であったこの地に、永正年間(1504-1521)には保成も居た可能性がある。
その後、天文15年(1544年)今川義元が松平竹千代(徳川家康)を強奪した戸田氏を制裁するために三河遠征軍を派遣し、天文6年(1537年)より今橋城を占拠していた戸田宣成(金七郎)を討滅し支配下に置いたが、この時に牧野保成に城を返付したと思われる。(田蔵系の旧城主牧野信成は享禄2年戦死、その子田蔵某尾張国知多郡に亡命)
ただし、城主の地位は名目的なもので、今川氏の置く城代(初め伊東元実のち小原鎮実)の軍事指揮権に服していたと考えられる。この頃より、牧野保成は今川氏の勢力を背景に東三河の牧野一族の惣領権を確保したと考えられるが反面それは戦国大名今川氏への同盟者から被官化への移行を意味する。(保成、この頃には本来出身系譜の田蔵系の通称・田三郎を称している)
弘治2年(1556年)には今川氏への被官化を嫌い、これを良しとする保成を憎んだ実弟の牧野貞成(民部丞)は織田氏に款みを通じる西条吉良系で当時東条城城主の吉良義安に与同して今川氏に反抗、しかし乱は今川軍に鎮圧され、東三河に退いた貞成は同年2月、牛久保城主の地位を追われた。 この事後処理として今川義元は同族の牧野成定を貞成の跡目として牛久保城に入れ、この成定は惣領牧野保成の意向に従って今川方として行動を共にしてゆく。
永禄4年(1561年)4月には徳川家康が今川氏に反旗を翻し牛久保城を急襲すると、牧野保成はただちに今川氏の命により家康に与した国人・西郷正勝の本拠地八名郡中山(現・豊橋市)を攻撃したが撃退された。 その後も今川方として牧野保成は徳川軍に頑強に抵抗し、宝飯郡内の佐脇・八幡砦や牛久保城周辺で激戦を繰り返したが、永禄6年(1563年)3月の牛久保城外の戦い(牛久保密談記による。但し宝飯郡八幡三片城という異説あり)で重傷を負い、のちに絶命(一説に自害)した。
[編集] 家族
- 父は牧野成種(出羽守)。
- 母は未詳。
- 子は嫡男・成元(しげもと、田三郎、のち出羽守か)。
- ほかに成真(しげざね、通称・出羽守、あるいは成元の子か)、内記某(伝不詳)、雲翁上人(浄土宗西山派の学頭と云う)。
- また、娘として奥平貞能(飛弾守)の室(その間に奥平信昌が生まれた)。
- 実弟に牧野貞成(民部丞、牛久保城主)。
- 甥に牧野成定(右馬允・新二郎、牛久保城主)。
[編集] 葬地・法名
葬地は不明(一説に大聖寺付近、牛窪記では「城外閑カナル処ニ卵塔(卵塔婆)」を作って密葬したと云う)。
法名・明誉信惣居士、新潟県の弥彦神社の旧五所宮に長岡藩牧野家によって、同名で神霊を祀られていた。 (牧野氏では、保成の死後、その鎮魂に腐心した様子が伺える。越後長岡藩主・牧野忠辰が、五所宮を創建し、牧野出羽守保成等の霊を祀った。保成・怨霊の鎮魂であったとも云われている。)
天文22年(1553年)の大恩寺阿弥陀堂棟札で既に息子成元に家督を譲っていたことから、この時50歳を越えていたと思われ、生まれは1500年前後と推測され、永禄6年(1563)の死没時年齢60歳位と推定される。