牧野康成 (戦国武将)
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牧野 康成(まきの やすしげ、1548年(天文17年) - 1599年4月3日(慶長4年3月8日))は、戦国時代の武将・徳川氏の家臣。初名は半右衛門正勝と称す。のち徳川家康より偏諱「康」字を賜り康成と改名。父は、三河国宝飯郡牛久保城主・牧野氏の寄騎(牛久保六騎)であった牧野山城守定成。
まだ徳川氏が三河西部の国人領主松平氏であった時代に、三河東部の有力国人であった牧野氏は、駿河・遠江の戦国大名・今川氏と、新興勢力であった松平氏との間で翻弄されていた。徳川家康(当時は松平家康)が東三河に進攻し優勢になった永禄8年(1563年)に牧野山城守定成は、嫡子・半右衛門正勝(のちの康成)と共にいち早くに内通。その後は牛久保城主牧野氏の徳川家康に対する帰順と、家康の三河平定に寄与した。
牧野組を離れて、武蔵国内に所領を与えられ、徳川家康の直参となって仕えた。1599年に死去し、家督は子で、後に下総国関宿藩1万7000石の大名となる牧野信成(まきの のぶしげ)が継いだ。関ヶ原の戦いに参加して、家康配下の勇将として知られた同時代の人物の牧野康成とは、同姓同名の別人である。
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