牛久保六騎
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牛久保六騎(うしくぼろっき)は、戦国時代に三河国宝飯郡に土着していた牧野氏・真木(槙)氏・岩瀬氏・野瀬(能勢)氏・稲垣氏・山本氏の六氏を指す。
この中で牧野氏と稲垣氏が近世大名・譜代大名として発展した。
この用語は、牛窪記が初見であり、江戸時代初期や戦国時代には、みることができないため、牛窪記の著者の造語である可能性が排除できない。
しかし、稲垣氏と山本氏を除く四騎(四氏)については、すでに戦国時代中期に牛久保の地頭とした史料がある。
牛久保六騎は、牛久保城主牧野氏を盟主として、西の岡崎城主・松平氏(徳川氏)、東の戦国大名・今川氏の力関係で揺れ動き、同じ宝飯郡内の本多氏、渥美郡の戸田氏など他の国人領主と対立していた。
諸説があるが牛久保六騎は永禄8年(1565年)2月までは今川方として対立していたが、それ以降(夏頃か)徳川家康に帰順(あるいは条件付降伏)の意志を示してその内意をうけ、また六騎のうち稲垣・山本氏等五人は岡崎にめされ家康に謁見して御家人(直参家臣)に列し、領地の全部・あるいは一部を安堵された。(『寛政重修諸家譜』巻・第384、『牛久保密談記』所載文書などによる)
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[編集] 牛久保六騎の各氏の概略
牛久保六騎はそれぞれその出自・立場に微妙な違いがある
- 岩瀬氏は家伝では奥州安達郡岩瀬(現在の福島県下)出身で藤原姓二階堂氏族という。その後今川氏の家臣となり三河国宝飯郡千両(豊川市千両町)に移った(本貫地、千両岩瀬氏は後にこの地の郷士となった)。 やがて、同郡大塚郷中島(蒲郡市大塚町上中島)に大塚城を築き城主となった。
牛久保六騎の岩瀬氏は天文年間の大塚城主岩瀬氏俊の弟和泉守入道善性が牛久保城主牧野氏に付属したもの。 和泉守の子・雅楽助は永禄年中の岩瀬氏あて今川氏真発給文書(感状・判物)によれば、牛久保・吉田両城への兵糧・煙硝・米穀の補給、また銭の融通など経済・物流関係への関与が目立ち今川領内での給付や酒造免許をうけた事などからも今川氏との関係が密である。
また、弘治2年(1556年)の牧野民部丞(貞成)逆心の節には牧野山城守(定成)の荷担を内談にて押し止めるなど牧野山城守との関係が特筆される。しかし、永禄7年(1564年)大塚城の本家岩瀬河内守(彦三郎)が再度徳川家康に降ると、翌年には稲垣氏等とともに岡崎で家康に恭順した。(詳細→岩瀬忠震のページの三河岩瀬氏) - 能勢氏は摂津国能勢郡(大阪府能勢町)の室町幕府御家人の能勢氏の分かれといい、連歌の縁で招かれ牧野古白に付属したともいう。 よって、しばらく今橋城牧野家の寄騎であったが今橋牧野家が没落すると牛久保牧野家の寄騎に移った。能勢氏は代々当主は丹波守を称している。永禄8年(1565年)には岡崎に参向し家康に恭順した。本貫地は不詳。(詳細→三河能勢氏)
- 真木氏は河内国古市郡槙庄出身で橘姓。鍛冶屋の職能集団を起源とする。室町期に牛久保城近隣の梶の郷(鍛冶郷、豊川市中条町)移住し本貫地とし、同地と牛久保城の内堀内に屋敷を構えた在地の土豪。城内の屋敷は出仕屋敷であったかは不明。六騎のうち永禄8年岡崎で家康に謁見しなかったのは真木氏とみられる。(詳細→三河真木氏)
- 稲垣氏は伊勢国出身明応年間三河国に移住したという。平姓というが後に清和源氏支流を称した。屋敷は牛久保城下岸組、本貫地は八名郡賀茂(豊橋市賀茂町)にあった。平右衛門尉を代々通称とした。稲垣重宗は牧野氏の宿老的存在である一方今川氏真の三河出馬の際に案内役を務め以後も氏真の信任が篤かった。しかし、子の長茂は永禄8年に山本氏ら4人の寄騎とともに岡崎に参向、家康に恭順した。(詳細→三河稲垣氏)
- 山本氏は駿河国の吉野氏の分かれというが諸説あり一定しない。初代成氏から代々帯刀を称す。本貫地は八名郡賀茂郷にあった。また、牛久保城下岸組にも出仕屋敷を持っていた。(詳細→三河山本氏)
- 牧野山城守は牛久保城主牧野家の分流というが、本宗からいつ分岐したかは不明。宝飯郡平井郷(豊川市小坂井町平井)に本貫地をもった。岩瀬氏とは対照的に軍事面での活動が今川氏の永禄年代の発給文書からも目立つ。特に永禄5年9月22日に牧野八太夫(山城守)が大塚城を徳川氏より奪還したことは特筆される。(関連→牧野康成 (戦国武将))
[編集] 牛久保六騎という語彙の初見
[編集] 概要
牛久保六騎は元禄10年(1697)頃成立という『牛窪記』にある用語で牛久保城主牧野氏の寄騎(岩瀬・能勢・真木・山本・稲垣・牧野)六氏をさす。但し、寄騎の牧野氏は牧野山城守(定成、後の田辺藩祖)をさすとされているが長岡藩にかんする文書『温古之栞』の異説もある(後述)。 『牛窪記』は続群書類従(塙保己一の著。正編は文政2年(1819)、続編は明治44年(1911)に刊行完了。)などに、収載がある。
戦国時代当時や江戸時代初期の史料などでは、語彙そのものは確認ができないが、永禄年間の牛久保牧野氏あての古文書(判物・朱印状)にこれに相当する人物名が記載され牛久保の寄騎・年寄としての存在が確認できる。
[編集] 検証方法
- 研究者以外の一般人が、この語彙の存在を検証・確認したい場合は、『東三河文献集成』(国書刊行会)を閲覧するのが、最も手軽であると考えられる。地元となる愛知県では市立図書館にも蔵書が見られることもあるが、それ以外であっても都道府県立の中央図書館や、史学科等を持つ大学図書館であれば、蔵書がほぼ確実にあるものと想像される。
- これらの人物について室町時代(戦国時代中期)となる天文7年(1538年)牧野氏・真木氏・岩瀬氏・野瀬氏による判物(4名が連署した古文書)が現存。愛知県図書館に寄託されている。但しこの史料の文中には、牛久保六騎衆と云う語彙はなく、地頭となっている。この文献は、愛知県図書館のHPの蔵書検索からは検索できない。
- また、永禄9年(1566)5月9日付牧野成定宛徳川家康判物で、家康は牛久保の諸給人の儀は五-六人の衆で相計ることを指示し、同年11月の家康の外叔父・水野信元が書状(副え状)で10月の城主右馬允(成定)死去後の扱いをこれらの衆あてに示したが、これには具体的に牧野山城守・能勢丹波守・(岩瀬)嘉竹斎・真木越中守・稲垣平右衛門尉・山本帯刀左衛門尉・同美濃守と宛名が記されている。
[編集] その後の牛久保六騎
牧野氏以外の五騎が、戦国時代に、東三河において牧野氏と同等の大勢力があったか否かは疑問が残るが、越後国長岡藩牧野家文書・温古之栞などによると、三河国牛久保城主の牧野新次郎(康成)は、徳川家康に(降伏を勧められて恭順し)安堵された所領を、牧野氏・真木氏・野瀬氏などと均分に分けたとしている。但し、この文言は、徳川氏に恭順後のものであり、牛久保六騎時代の同時代文書とは言いがたい。
この中に稲垣氏、山本氏、岩瀬氏が含まれていないが、この三騎は徳川家康に臣従して、所領を直接安堵される一方で、牧野組の旗下に附属していたと推察される。
- 三河稲垣氏は、1565年、岡崎城の家康に召し出されて、直参資格を得た。しかし1566年に牧野氏に稲垣長茂が帰参して、その家臣筆頭となった。1590年の徳川家康の関東移封に伴いその直参組となり、牧野氏から離れ、やがて譜代大名(志摩国鳥羽藩・近江国山上藩)に列した。庶流の稲垣平助家は、家康の旗本身分を兼帯して牧野氏に帰参し、稲垣惣領家の跡式を相続したものと推察され、後に家老首座連綿となり2400石が与えられた。
- 山本氏の惣領家は、1565年、岡崎城の家康に召し出されて直参資格を得た。1590年、徳川家康の関東移封に際して、家康の旗本身分を兼帯して牧野氏に帰参した。主な庶流は、越前国福井藩松平氏の上級家臣、志摩国鳥羽藩稲垣氏の家老連綿、徳川直参組の旗本(但し小禄)などとなった。山本氏については初代帯刀左衛門尉成氏の庶兄が山本勘助晴幸であるという伝承が長岡藩家老の山本帯刀家の由緒書きにあるが、旧牛久保領内の寺院に異説があるなど事実関係は不明確であり、現状は伝承に留まる。
- 岩瀬氏は、1565年に岡崎城に召し出され直参資格を得て牧野組の旗下にあった。1590年の徳川家康の関東移封に伴い牧野組を離れて、徳川直参組(大身旗本)となった。庶流の出自である幕末の幕府外交官岩瀬忠震は著名。
- 野瀬(能勢)氏の惣領家は、永禄9年5月の家康公御判礼により、牧野氏の家令(原文は可令)となる。しかしその後、一時浪人。1600年の関ヶ原の合戦前後に徳川直参組の大身旗本となった。庶流は越後長岡藩の客人分連綿・重臣などとなった。
- 真木氏は、孤軍で牛久保城を守って戦死するなど牛久保六騎の中では、反徳川派で今川派の旗頭的存在であったが、その功績が尊重され、牧野氏客人分(客将)として、上野国大胡城在城期の牧野氏2万石から、その家老首座を大きく上回る3000石を与えられた。後にその当主は扱いや待遇の不満などから出奔したがやがて帰参した。結局、真木氏は譜代大名牧野氏の家臣として分割・吸収され、越後長岡藩の客人分連綿・重臣や、信濃国小諸藩家老などとなった。