田路舜哉
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田路舜哉(とうじ しゅんや、1893年11月12日 - 1961年7月5日)は、昭和の実業家。住友商事の元社長、会長。住友商事の創業者。
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[編集] 来歴
1893年、明治26年11月12日、兵庫県宍粟郡一宮町安積において出生。父、本條竹五郎、母ユキの長男として生まれる。後に、田路家に養子に入り、母方の田路姓を名乗る。実弟の本條猛二は、山陽自動車運送の創業者。
- 1917年7月、第三高等学校卒業
- 1920年7月、東京帝国大学法学部卒業
- 同月、住友総本店(後に住友合資会社)入社
- 1923年10月、秋山光五郎長女美佐雄と結婚
- 1925年2月、住友合資会社別子鉱業所勤務
- 1931年10月、株式会社住友肥料製造所新居浜工場長代理者。
- 1932年10月、住友合資会社上海販売店支配人。
- 1938年1月、住友金属工業株式会社伸銅所業務部長。
- 1945年5月、同社取締役
- 11月、同社取締役辞任
- 12月、日本建設産業株式会社常務取締役
- 1946年11月、同社専務取締役
- 1947年3月、同社社長
- 1952年6月、日本建設産業株式会社を住友商事株式会社と改称
- 1956年11月、同社会長
- 1961年7月5日、脳血栓による脳軟化症のため芦屋市の自宅において逝去
[編集] 住友商事の発足
昭和20年8月の終戦で、GHQの財閥解体指令によって住友本社の解散が決定的となったことから、解散予定の住友本社職員および外地からの復員、引揚者などの会社の過剰となる職員の受け皿を用意することが、差し当たって最大の問題となる。受け皿のための新規事業計画案は、商事、製塩、水産、セメント、出版などであったが、新たに設備投資を必要とするような事業計画は、緊急に職場を開設しなければならない状況を考慮すれば、困難であるとの判断から、大正9年1月の鈴木馬左也総理事の商社設立禁止宣言以来、住友では長年にわたってタブーとなっていた商事部門の開設が最適であるという結論に達した。
この決定に従って、直ちに独立の商社を設立すべきか、あるいは既存の旧連系会社に寄生させるべきか、検討が重ねられたが、住友土地工務が戦後の事業転換方策の1つとして、同社の土木建築部の知識経験を活用して、復興建設などに必要な土木建築用資材の販売を行いたいということを住友本社に提案していた。同社は住友各社の本拠である住友ビルのほか、大阪北港地域に広大な土地を所有しており、資産内容も良好であったため、昭和20年11月26日、本社解体処理の第一着手として、社名を日本建設産業(株)と改め、定款の事業目的に「土木建築用資材其の他各種製品の販売」という項を追加して、商事活動開始の体制を整えた。新設の商事部門を誰が主宰するかについては、全住友職員の中から3人の候補者を選び、常務理事会において、住友金属工業取締役伸銅所副所長の田路舜哉に決定し、同年12月11日、日本建設産業の常務取締役に就任した。
田路舜哉は早速、営業部を開設するため、組織、機構、人事を整える作業に着手し、昭和21年1月1日付で、住友本社をはじめ連系各社から転入してくる職員を正式に受け入れ、新しい商事活動の体制を整えた。従来の在籍者と合わせると720名となり、人材の離散を防ぐという第一目的は、とりあえずのところ達成したが、商事活動については、全員が全く未経験であり、何から手をつければよいのか、見当もつかない状態であった。当時は、大部分の工場が爆撃を受け、生産活動を開始する段階には程遠い状態で、取り扱うべき商品は何もなく、物価はものすごい勢いで高騰を続け、闇の市場が闊歩している有様だった。最初に活動を開始したのは、被爆した工場に埋没してしまった金属類の回収と、各工場その他の在庫物資の引き出しであった。廃品同様の品物を掘り出し、それらを洗浄して若干の手直しの上、販売するという仕事が、商事発足の初仕事であった。
昭和22年1月、公職追放令の範囲が拡大されて財界にも及んできたため、竹腰健造社長以下3名の役員が退任することになり、3月27日、臨時株主総会後に開かれた取締役会で田路舜哉専務を新社長に選任し、役員陣が一新された。田路舜哉は、昭和7年から6年間、中国の住友上海洋行の支配人を勤めた経験があり、役員の中で唯一の商事活動経験者であった。住友全職員の中から、商社社長の最適任者として選ばれた人物であったので、竹腰健造社長辞任の後を受けて社長になることは、予定の筋書きであった。常務時代から営業部の職員に対し、「熱心な素人は玄人に勝る」と営業部員を激励しながら自由な活力を引き出すことに努力していた。
昭和22年7月にGHQは三井物産、三菱商事の即時かつ徹底的な解体指令を出し、両社は11月末に解散した。両社は日本を代表するトップ商社であり、この解体時点で三井物産は71年、三菱商事は合資会社営業部時代から47年という、それぞれ長い活躍の歴史を持ち、素人集団である日本建設産業に比べれば、立派な経験と商権を持つ商社であったといえた。GHQはこの処置をとるに当たって、住友財閥にも商社があるはずであると考え、取り調べたところ、日本建設産業という会社に、住友本社の残党が多数転入して商事活動をしているというので、資料を取り寄せたが、取扱高があまりにも少ないので、これは問題にならぬと決定された。
昭和25年6月、朝鮮戦争が勃発し、輸出好調と内需の増加に加えて、アメリカの特需によって好況を迎えたが、26年3月から一転して反動沈静期に入り、多数の倒産商社が発生した。日本建設産業は自社の体力を冷静に見詰めて、この好況に乗じて利益の獲得に焦るよりも、取引分野を拡大して確実な取引地盤を築くことに専念したため損害はきわめて軽微であった。この朝鮮戦争の前後において、日本建設産業は大きな転換期を迎えた。1つは建築土木部門の分離、第2は社名の変更、そして本格的な海外展開である。
日本建設産業の建築部門は、建設工事を主体とする事業ではなく、建築の設計監理を目的とする部門であったので本来の建築の設計監理業務に復元するため、商事会社から分離独立させることになり、25年7月1日、日建設計工務(株)(後に日建設計)を新設し、この新会社に建築部門を譲渡することになり、部員95名が事業とともに同社へ転出した。27年5月に「財閥の商号商標使用禁止等の政令」が廃止され、早速、日本建設産業から住友商事(株)へと社名を改めた。
住友商事となって以来、各業界の一流会社と新しく取引が開け、また取引が拡大するほか、海外においても取引先の理解と信用を増し、商社活動を一層伸張することができるようになった。また、職員の採用や資金調達の円滑化をはじめ、業務全般にわたって無形の好影響があった。このころを境に海外へ大きく目を向け、24年インド政府の発電所用電線類と碍子の国際入札に住友電工と協力し落札。その納入と以降の受注促進のため25年7月に初めてボンベイに駐在員を派遣し、事務所を開設した。昭和26年にはカルカッタとサンフランシスコ(同年ニューヨークへ移転)27年にカラチ、ハンブルグ(同年デュッセルドルフに移転)に、それぞれ駐在員事務所を開きニューヨークには米国法人ニッケン・ニューヨークを設立し、28年以降は、東南アジアの主要都市を中心に積極的に駐在員の派遣を行い、30年3月までの海外店舗は15店を超え、初期段階での海外事務所網の布石を終えた。
日本経済は20年代の復興段階を終え、高度成長期に入っていたが、貿易の回復はやや遅れ、20年代末の段階では貿易量はまだ戦前の水準に達していなかった。そこで当局は自立経済を支える主柱となる輸出増強を期し、強力な商社育成を図る政策をとった。これに促されて29年に三菱商事が復活し、30年には三井物産系三商社の合併が実現し、同年、丸紅と高島屋飯田の合併も行われて有力な貿易商社が次々と出現した。
昭和31年11月株主総会終了後の取締役会において田路舜哉は、会長に就任し、後任には津田久常務取締役が昇格した。津田は46年(1971年)まで社長を務め、後に名誉会長となる。
田路舜哉は住友商事創設の最初から、敗戦直後の名状し難い混乱の中、住友がとくに遠ざけていた商社活動の分野へ、全くの素人集団を引き連れて船出し幾度か押し寄せてきた危機を乗り切って、後1歩で業界10位に届くまでに育て上げ最も困難だった基礎作りがほぼ固められた。会長に就任した後は、住友グループの新しい本陣となる新住友ビルディングの建設に注力を注いだが、あと1年で竣工するという36年7月5日、脳血栓で逝去した。
[編集] 教育活動
田路舜哉記念奨学育英基金
[編集] エピソード
- 経済人の勲章ともいえる叙勲を辞退している。
- 財閥解体後、住友各社の協力関係を維持するため、三高時代からの旧友である土井正治(元住友化学会長)とともに、住友グループ企業の社長連絡会を設立することを提唱。1949年(正式には、1951年4月)に住友直系11社で構成される白水会が設立された。これは三大財閥中最先発で、住友グループの結束力の強さがうかがえる。後に三菱グループは、1954年に金曜会を、三井グループは、1961年に二木会をそれぞれ設立している。
[編集] 関係する人物
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 「私の住友昭和史」津田久 編者(東洋経済新報社 1988年)
- 「田路舜哉の思い出」住友商事株式会社 編集発行 1963年
- 「住友財閥史」作道洋太郎 編者 (教育社 1979年)
- 「住友王国」邦光史郎 著者 (集英社)