出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
畑 和(はた、やわら、明治43年(1910年)9月29日 - 平成8年(1996年)1月26日)は、昭和中期から平成初期にかけての政治家。衆議院議員、埼玉県知事を歴任。
[編集] 経歴・人物
[編集] 埼玉県政
- 「新・現実主義」といわれる、革新系の知事としては比較的現実に即した路線を取り、地方自治に保守も革新もないと立場を取ったが、自由民主党系会派は基本的に一貫して県議会野党であり、県民の圧倒的な支持を得た知事であったとはいえ、県政運営についてはかなり苦しんだ。
- 県立高校の大量新設による県内の高校進学率の大幅向上、後に公立教育の先進校とも言われる伊奈学園の設立、さいたま新都心構想など、以降の埼玉県の発展にも関わる重要な功績を残している。この為、美濃部亮吉東京都知事など、同時期に他の都府県で革新行政を行った知事に後年に至って評価を落した者が多いのとは対照的に、保守県政となっている現在もなお埼玉県内での評価は決して低くはない。
- 長期県政の結果県庁内の意識低下が見られ、窓口応対など県民に対するサービスが悪いとの声が上がる。後任の土屋義彦・上田清司により改善された。
- 埼玉県知事在職20年は歴代埼玉県知事の中でも最長であり、退任の際は県庁前に職員約700人が集結しての見送り式が行われた。
[編集] 知事引退時の動き
- 1991年10月、参議院議長土屋義彦はその職を辞し、翌年の埼玉県知事選挙への立候補を表明する。これに対し現職の畑も同年12月の県議会定例会で6選出馬を明言。大物同士の一騎打ちの様相となったが、金丸信と田辺誠が双方に出馬を取りやめさせようと画策。この背景には歴代首相と懇意で経世会にも近かった佐久間実・自民党県議団長(元県議会議長・元自民党埼玉県連幹事長)が「ポスト畑」に意欲を示しており、既に自民党経世会と社会党との間では、畑を引退させ佐久間を後継者とすることで話がついていたという事情があったといわれる。参議院議長を務め、既に政治家としては(双六で言うところの)「あがり」と見られていた土屋の突然の立候補表明は永田町では予想外の出来事であったという。
- 金丸らの意を受けた県選出衆議院議員の山口敏夫が両者の説得に当たるも不調に終わり(山口も知事の座を狙っていたといわれる)、金丸本人が双方に出馬を断念するよう申し入れた。
- 年が改まった1992年、畑の実弟を含む建設業者による「埼玉土曜会」談合・献金事件が起き、疑惑が広がる中で畑は出馬を断念。政界引退を表明。一方山口・佐久間らはなお土屋の出馬取りやめを画策した。しかし土屋は清和会の支持や当時大正製薬名誉会長だった叔母上原小夜の後押しを受け、断固出馬の態度を崩さず、結局自民党推薦での立候補に至った。
[編集] エピソード
- 二・二六事件の時、落語家の5代目柳家小さんとともに反乱部隊となった歩兵第三連隊機関銃隊に二等兵として所属していたため、上官の命令に従い一兵卒として警視庁占拠に参加している。
- 畑が所属していた日本社会党は長らく左派と右派が対立していたが、当初勝ち目が薄いと見られていた知事選への出馬は、左派側が畑を政界から引退させるために立候補に追い込んだためではないかといわれた。しかし畑が当選したため、左派の目論見は外れることになった。このような経緯もあり、保守・中道系の票も畑に集まることになった。