落語家
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落語家(らくごか)は、落語を話して聞かせる事を職業とする人。その話術を生かしテレビやラジオの司会業、パーソナリティなどの副業をすることも多い。「話家」「噺家」「咄家」(はなしか)は、「落語家」の古い表現である。
落語家の演ずる噺は大別して二種類ある。
このため、「落語家」という表現は、厳密には 1. のみを語る者ということになり、1. 2. 両方語る場合「噺家」の方が適切な呼称であるが、1.に属する一部の噺も人情噺として捉える主張の存在もあり、現在は「落語家」で定着している。
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[編集] 落語家の種類
[編集] プロの落語家
江戸時代には狂歌や雑俳に関わる人々など素人の咄家も活躍していたが、やがて烏亭焉馬や三笑亭可楽などの職業咄家たちがあらわれた。
[編集] 真打制度
芸事の社会においては可視的にも、不可視的にも序列がある。真打制度は、この序列を制度としたものである。即ち、封建的な身分制度と言い換えてよい。身分とはその本人のみに属するものであるが、集団で行動する際には重要な意味を持つ。落語家の集団とは一家一門である。
現状では真打制度は江戸落語特有の制度とされる。
[編集] 制度基盤
- 基本的には、芸人は個人営業である。一家一門の集団として行動する意味合いは、弟子の育成や芸の伝承からくる必要性もあるが、自分の権利を主張しなければ他人に席を取られるという競争原理に対しての防衛策といえる。
- 落語は興行であり寄席やホールへの出演の有無やその回数は興行を主催する寄席やホール経営者の意図によるが、楽屋内での序列も大きく関わってくる。ライバルとの競争でお客から笑いを勝ち取らなければならない。
- ただ、結局は興行を成立させている寄席やホールのパイ自体が小さいため競争によるデメリットも互いに承知している。落語家は芸の上ではライバルと切磋琢磨しながら、決定的な段階では巧みに競争原理を回避して自分の勢力伸張を図り、結果として共同歩調をとるという手法を選択する。
- この調整機能を果たしてくれるのが協会内部での一門同士の話し合いである。個人事業主である落語家が団体を作り役職を決めるのはこの話し合いのためであり、その背景にはどれだけその一門が真打を抱えているか。どれだけ理事を抱えているかという「力」の論理が存在する。落語家が己の地位を確立するためには、「芸」と「一門」という両輪が必要である。
- もちろん、話合いという調整機能がうまく働かず分裂という結果となることもある。後述する円楽一門、談志一門はその例である。但し、彼らも芸の伝承の上から真打制度は踏襲している。
[編集] 身分
- その身分は前座、二ツ目、真打の三段階からなり、二ツ目から真打は己の師匠と別の師匠による推薦の後、試験により昇進が決められる。
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- 前座(ぜんざ)
- 弟子入りを志願した師匠から入門の許可を得た落語家の卵。ただし、前座名(名前)を師匠から貰い、楽屋入りするまでは「前座」ではなく「見習い」と呼ぶ。呼び込み太鼓・鳴り物・めくりの出し入れ・色物の道具の用意と回収・マイクのセッティング・茶汲み・着物の管理など楽屋、寄席共に毎日雑用をこなす。昔は師匠宅に住み込みで身の回りの世話をすることもあったが、現在は通いの方が多い。最も古株の前座のリーダー格を「立前座」と呼ぶ。寄席で「開口一番」と呼ばれる最初の一席を受持つ場合もあるが、あくまで勉強の為であるから通常は番組にも載らず、割(客の入りに応じて分配される給金)ももらえない。第二次世界大戦直後位までは古参で実力のある前座も存在したが、その後はある程度の年数が経つと、ほぼ自動的に昇進するようになった。現在は3~5年が一般的。
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- 二つ目(ふたつめ)
- 辞書に掲載されている形では「二つ目」だが、最近では「二ツ目」と表記されている事が多い。この表記については特に決まりが無く、人によっては「二っ目」や「二ッ目」と仮名を小さく書く場合もある。紋付きの羽織を着ることが許されるようになり、番組にも名前が出る。また、昇進の挨拶に配る自分の手拭いを作るのもこの二つ目になってから。寄席での一席で割がもらえるようになるが、仕事は定席以外は基本的に自分で探してこなければならなくなる。前座でやってきた雑用が全く無くなった分、その給金や小遣いがもらえる訳でもなく、経済的には苦しいと言われ、アルバイトなどをするものも少なくない。
なお、上方落語では「中座」(なかざ)と呼ぶ。
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- 真打(しんうち)
[編集] 問題点
- 戦後、真打昇進制度は数度変わったがその選考基準が不明瞭であるとする批判が一貫してあり、これが引いては一門間の、または一門内部の対立の原因となっている。また、真打昇進後も香盤と呼ばれる昇進時の序列が人気、実力の変動にかかわらず絶対に変わらない事が不満を産むとされる。
香盤が一門同士の対立を決定的に避けるための安全保障条約を果たしているという意見もある。
- 戦後の騒動
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- 円楽一門会につながる落語三遊協会の設立
- 1978年、三遊亭圓生が落語協会理事会において当時常任理事にあった三遊亭圓歌・三遊亭金馬・春風亭柳朝らの更迭、大量真打の反対の動議を提出し結果棄却されたことに起因しており、この事が昇進試験制度設立につながる。
- 立川流の創設
- 1978年の三遊協会騒動では落語協会に残った立川談志だが、1983年、昇進試験をめぐり落語協会主流派と談志一門が対立した事が理由とされる。この事件は試験制度による改革も決して業界全体を満足させるものではない事を証明したとされる。
- 根本のところは制度の運用以前の段階で矛盾がある。
[編集] 上方落語における真打制度の不在
- 上方でも真打制度は上方落語協会の非公開の内規として存在していたが、現在は事実上消滅しており、復活が論議されたが見送られている。不採用の理由は上方落語の自由な気風を損ねるとするものであったが、無論これをして上方に序列がないという結論づけはできない(事実、香盤は存在する)。
- ただ、上方は協会の運営が東都にくらべ民主的であるとされる。上方は戦前に「桂派」「浪花落語三友派」「浪花落語反対派」などが血みどろの内部抗争を繰り広げた結果漫才人気に対処できず、後継者難や戦災による寄席の全滅という死屍累々の中から6代目笑福亭松鶴、3代目桂米朝、5代目桂文枝、3代目桂春團治ら「上方落語四天王」の登場という僥倖を得て、一門の枠を超え一致団結して再出発をし、民間放送ブームを背景に伸長した経緯もあり、多くの落語家は個人営業でなく松竹芸能、吉本興業、米朝事務所などの芸能事務所の契約タレントという形をとる。芸能プロの紐付きに批判もあるが、客観的な評価という面では企業による管理が正しくないとは断言できない。
[編集] アマチュアの落語家
大学の落語研究会に所属する学生などのほかにもアマチュアの落語家が昔から存在し、これらの人々は「天狗連」と呼ばれる。プロの落語家が使わない亭号・屋号を名乗ることが多い。その他にも、地方で落語をベースにした独自の活動を主体にしている、大分県の県南落語組合などのような社会人活動グループなどもある。
[編集] 落語家の所属団体
[編集] 関東の落語家
[編集] 関西の落語家
[編集] 代表的な落語家
著名な落語家を挙げる。詳細は各落語家のリンク先を参照のこと。その他の落語家については落語家一覧を参照。
- 三遊亭圓朝(さんゆうていえんちょう)
- 江戸末期から明治にかけて活躍した落語家。落語筆記や寄席の近代化、新作落語など、落語の近代化に尽くしたため、中興の祖として仰がれる。講談的な人情噺を得意とした。『牡丹燈籠(ぼたんどうろう)』、『芝浜』、『真景累が淵(しんけいかさねがふち)』、『乳房榎(ちぶさえのき)』などが代表作である。
- 明治期の名士であり、夏目漱石の小説などにも描かれた。墓は谷中にある。
- 5代目古今亭志ん生(ここんていしんしょう)
- 旧旗本美濃部家の息子だが、遊びが過ぎて勘当され、芸を志す。当初は落語だけでなく講談もやっていたが、一向に芽が出ず、赤貧生活が続いた。当時の様子は『なめくじ艦隊』に詳しい。講談も含め芸名を15回変えたことでも有名。
- 戦争中、酒がたらふく飲めると聞いて6代目三遊亭圓生と共に満州巡業に出かけ、そのまま行方不明。戦後、引揚げてからはその自堕落で天衣無縫な芸風が人気を博し、流行噺家に。十八番に『火焔太鼓』、『唐茄子屋』など。与太郎や駄目亭主を演らせれば天下一と言われ、圓生をして「道場なら勝てるが、真剣で立会ったら私が斬られる」と言わしめた。
- 高座で酔って寝込むなど、エピソードも多い。また客も「志ん生、ゆっくり休めよ」と声を掛けたという。長男は10代目金原亭馬生、次男は3代目古今亭志ん朝。
- 8代目桂文楽(かつらぶんらく)
- 志ん生の闊達な芸風の対照に、文楽の謹厳な芸風がある。李白と杜甫の間柄にも似ているが、両者は並んで昭和の落語界を支えた。
- 文楽の芸は緻密で芸術的であり、演目は少なかったが、特に『馬のす』の豆を箸でつまんで食べる食芸は絶品とされた。芸に対しては自分にも他人にも厳しく、傲岸なところもあった。本来は桂文楽の「六代目」に当るが、八は末広がりで縁起がいいということで、勝手に八代目と名乗った。代表的な演目は『明烏(あけがらす)』、『鰻の幇間(うなぎのたいこ)』等。
- その芸は一点の狂いもなく行われるのが特徴だったが、1971年国立小劇場で『大仏餅』を口演中に登場人物の「神谷幸右衛門」という名前が出てこなくなり「もう一度勉強し直して参ります」として下がった。以後、高座に上ることなく没した。上野の黒門町に住まいがあったため、「黒門町」とも呼ばれた。因みに文楽が会長であった落語協会も黒門町にある。
- 林家三平(はやしやさんぺい)
- 「よしこさーん」などの歌謡フレーズ、ギャグや駄洒落を取り入れたスタイルで、高度成長期に一世を風靡した落語家。客いじりが絶妙で、彼の寄席は常に爆笑の渦であった。落語とバラエティ番組の接点を切り開いたタレントとしても知られる。
- 父(林家正蔵)に落語の手ほどきを受けるが、4代目月の家圓鏡(後の7代目橘家圓蔵)に師事する。
- 大衆ウケする反面、芸が未熟として正蔵襲名は遂に適わなかった。代表的な演目は『源平』。大病の後、芸が老成したが間もなく肝臓ガンで死去。享年54。
- 弟子として林家こん平や林家ぺー等。息子に9代目林家正蔵(長男)、林家いっ平(次男)、娘はタレント海老名美どり(峰竜太夫人)、泰葉(春風亭小朝夫人)、妻はエッセイスト海老名香葉子(えびな かよこ)。
- 落語四天王(らくごしてんのう)
- 2代目桂枝雀(かつらしじゃく)