百団大戦
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百団大戦は、日中戦争期に八路軍と大日本帝国陸軍の間で戦われた会戦の中国側呼称。約100の八路軍の団(日本陸軍の連隊に相当)が参加したとされることでこの名称がある。ゲリラ戦を得意とした八路軍が初めて行った大規模な攻勢である。 日中戦争で日本陸軍は華北一帯を占領下に置いたが、中国軍(国民政府軍)が撤退した後の権力の空白に乗じて勢力を伸ばしたのが中国共産党だった。戦争が始まる前に山西省で軍閥閻錫山と提携していた中国共産党は、日本陸軍の進攻によって閻錫山が陝西省に退避すると、共同軍の赤化工作とともに根拠地建設と民兵の組織を積極的に進めていった。日本陸軍も徐々に八路軍の覆滅を狙った根拠地への攻撃を増やしていった。このような中で八路軍は日本陸軍の戦線維持のために必要不可欠な鉄道と道路、さらに炭坑等の重要施設の破壊を企図した。
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前段
八路軍総司令官朱徳、副総司令官彭徳懐が1940年7月に『戦役予備命令』(作戦準備指令)を発した。この中で、最低22個団が参加し、正太鉄道(山西省太原-河北省石家荘間、同蒲鉄道(大同-風陵渡間)、平漢鉄道(北京-漢口間)津浦鉄道(天津-浦口間)、北寧鉄道(北京-瀋陽間)がそれぞれ攻撃目標とされた。最重要目標は延安と華北を結ぶ回廊、正太鉄道である。また山西省の井徑炭坑などの重要施設も攻撃目標とされた。これを受けて八路軍晋察冀軍区の第120軍と129軍が1940年8月20日に行動を開始した。これがその後5ヶ月にわたる百団大戦の発端である。
参加兵力
5ヶ月にわたる戦役のため、以下に示すのは最大参加兵力である。資料によっては日中双方二十万人づつの投入兵力というものもある。
- 中国側:八路軍第120師団46個団、第129師団20個団、合計40万人
- 日本側:北支那方面軍(中心は山西省の第1軍)、駐蒙軍
- 満州国軍:15万人
経緯
(以下は中国の公式見解である)
- 第一段階(8月20日-9月10日)
正太鉄道を寸断した。
- 第二段階(9月22日-10月初旬)
日本軍の根拠地に攻撃を仕掛けるも、十分な打撃を与えることはできなかった。一部戦線では有力な日本軍の反撃に会い、少なからず兵力を損耗した。
日本軍の反撃を粉砕し、山西省から日本軍を駆逐、作戦終了。 ※実際には日本軍の反撃によって八路軍は根拠地(陝西省・山西省東南部の山岳地帯)に退避した。
戦果
(以下は中国の公式見解である)
日本側の記録
中国共産党の見解では、日本軍に多大な損害を与えたとしているが事実ではない。鉄道・道路・経済施設が多大な被害を受けたが、それらを警備する守備隊との間で戦闘が起きたのであって、「会戦」と呼ぶにはふさわしくない。この百団大戦をゲリラ戦とするか重要施設に対する大規模同時テロと解するかは争いがある。日本人の民間人の死傷者も多数発生した。 日本陸軍(華北)の八路軍に対する認識は、百団大戦で一変したという。それまで匪賊程度にしか考えていなかった八路軍が思いもよらないほど浸透していたからである。百団大戦以降、日本陸軍は八路軍に対する攻撃を強化していった。