秋山好古
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秋山 好古(あきやま よしふる、安政6年1月7日(1859年2月9日)- 1930年11月4日)は日本軍の陸軍軍人。陸軍大将 従二位 勲一等 功一級。幼名は信三郎。また、日本海海戦で、先任参謀として丁字戦法を考案、バルチック艦隊を撃滅した秋山真之は実弟にあたる。
- 陸軍騎兵学校を参観に来たフランス軍人に「秋山好古の生涯の意味は、満州の野で世界最強の騎兵集団を破るというただ一点に尽きている」と賞されているとおり、日本の騎兵の父と言われた。
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[編集] 年譜
- 1859年:伊予松山城下(現・愛媛県松山市歩行町)に松山藩士 秋山久敬 貞の三男として生まれる。秋山家は足軽よりも一階級上の位で家禄10石程の下級武士(徒士身分)だった。藩校明教館へ入学し、家計を支えつつ学ぶ。このころ、天保銭一枚(100銭に相当)にて、銭湯の水汲み、釜焚き、番台の管理をやっていた。
- 1875年:大阪師範学校受験
- 1876年:大阪師範学校卒業 名古屋師範学校附属小学校勤務
- 1877年:陸軍士官学校(旧制3期生)に入学し、卒業後は東京鎮台に配属される。
- 1879年:陸軍士官学校卒業 任陸軍騎兵少尉
- 1883年:任陸軍騎兵中尉 陸軍大学校(1期)へ進む
- 1886年:任陸軍騎兵大尉
- 1887年:フランスへ私費留学して騎兵戦術の習得に努める。
- 1892年:任陸軍騎兵少佐
- 1893年:騎兵第一大隊長。
- 1894年:日清戦争に従軍。
- 1895年:任陸軍騎兵中佐
- 1897年:任陸軍騎兵大佐
- 1904年:日露戦争において騎兵第一旅団長[1]として出征し、第二軍に属して、沙河会戦、黒溝台会戦、奉天会戦などで騎兵戦術を駆使してロシア軍と戦う。また秋山支隊からロシア軍の後方攪乱のために派遣された永沼挺身隊の活躍は、小説『敵中横断三百里』によって有名となっている。その後、「日本騎兵の父」とも呼ばれた。
- 1915年:近衛師団長
- 1916年:任陸軍大将。
- 1920年:陸軍教育総監となり、陸軍の最高幹部の一人となる。
- 1923年:予備役に編入。(元帥位へ推薦の話もあったが本人が固辞した)
- 1924年:北予中学校(現在の松山北高校)校長就任。退役陸軍大将の仕事としては全くの異例(の降格)であったが、本人の強い希望だったと言われる。
- 1930年:校長辞任。糖尿病による心筋梗塞により東京の陸軍軍医学校で永眠。享年71。墓所は松山市の鷲谷墓地
著作に『本邦騎兵用兵論』。
[編集] 人物像
風貌は特徴的な鼻から「鼻信」とあだ名され、色白で大きな目をもっており陸軍大学校時代には教官のメッケルからヨーロッパ人と間違えられたというエピソードがある。現代風にいえばイケメンであり故郷の松山や留学先のフランスでは女性にかなりもてたという。しかし当の本人は「男子に美醜は無用」という信念の持ち主で歯牙にもかけなかったそうだ。また、士官学校教授だった作家の内田百間は「意地の悪そうな顔」とも記している。酒を非常に好み、戦場でも水筒の中に入れ持ち歩いていた。それだけでは足りず、従兵が気を利かせて、従兵の水筒にも酒をつめていた。過度の酒好きにより晩年は重度の糖尿病を患っていた。
極度の風呂嫌いで、日露戦争中に入浴したのはたったの2回だけだったと云う。軍服も全く洗濯せずに着用し続けていた為シラミが湧き、近くにいるだけでも異様な悪臭が漂う程だった。部下や同僚が入浴し身体を清潔にする様に何度となく進めたが「軍人たるもの戦場においてはいつ何時でも敵に対処出来る様にしなければならない(入浴している間に異変があった時対処出来ない)」「風呂に入る為にこれ程遠い戦場まで来たのではない」と言って断っていた。晩年は自らの功績を隠す様にしていた。校長就任時に生徒や親から「日露戦争の事を話して欲しい」「陸軍大将の軍服を見せて欲しい」と頼まれても一切断り、自分の武勇を自慢する事は無かった。
愛媛県伊予市の伊予港(郡中港)にある藤谷元郡中町長の胸像の碑文の原本は、秋山によって認められたものである。
[編集] 参考図書
[編集] 関連項目
- 明治の人物一覧
- 愛媛県出身の有名人一覧
- 河野氏秋山氏の本姓とされる
- 黒溝台会戦
[編集] 外部リンク
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