細野正文
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細野 正文(ほその まさぶみ、明治3年10月15日(1870年11月8日) - 昭和14年(1939年)3月14日)は、明治期の官僚。
二男は交通学者で中央大学教授や日本学術会議会員等を歴任した細野日出男。作曲家の細野晴臣は孫。
[編集] 略歴
- 1870年11月8日-新潟県中頸城郡保倉村(現上越市)生まれ。
- 1896年-東京高等商業学校(現一橋大学)本科卒。
- 1896年-三菱合資会社入社。
- 1897年-同社を退社し逓信省入省、新橋駅貨物係になる。
- 1906年-東京外語学校(現東京外国語大学)ロシア語科修了。
- 1907年-帝国鉄道庁経理部調査課主事になる。
- 1908年-鉄道院主事になる。
- 1912年-タイタニック号に乗船。タイタニック号の事故による誤報で非難が集まる(後述)
- 1913年-鉄道院主事を免官。
- 1925年-鉄道事務官退官。その後、岩倉鉄道学校(現岩倉高等学校)で勤務。
- 1939年3月14日-逝去
[編集] タイタニック号事故による誤報
細野は、1912年第1回鉄道院在外研究員としてのロシア・サンクトペテルブルク留学の岐路にてタイタニック号に日本人ではただ一人乗船していたが、タイタニック号は沈没。その際他人を押しのけて救命ボート(13号ボート)に乗った[1]との誤報(誤報ではなく意図的な虚報であったとする意見もある)が広まり、新聞や教科書[2]等で大きな批判を集めることとなる。この批判によって、翌1913年には鉄道院主事を免官となる。
細野は一切弁明をせずその不当な非難に生涯耐えた。しかし、死後の1941年になって細野が救助直後に残した事故の手記が発見され、1997年に手記等の調査から人違いであることが確認されて、正式に名誉回復がなされた。しかし、事故から時間がたちすぎている一方、名誉回復からの日が浅いために、日本人男性が非紳士的であるといった類の中傷の題材に日本人女性や外国人が用いることがある。事実、死後にも洞爺丸の海難事故の際にタイタニックの誤報が取り上げられ、再び国内でこの誹謗が蒸し返されたこともあった。それらの事情から、名誉回復がいまだ十分になされているとはいえないとの指摘もある。
[編集] 脚注
- ^ 細野は二等船室に乗り合わせていた。このこと自体は、細野が救命ボートに乗りこめる可能性が三等船室よりは高いという有利な立場にいたことにつながる。そして事故の際、細野は救命ボートに乗客が乗り込む場面に遭遇しそれを傍観していたが「あと二人分余裕がある」との声を聞いて、それならば、と自ら乗り込んだとされる。有色人種等に対する人種差別がきわめて一般的であったこの時代(実際に沈没しようとする時、甲板に上がろうとした際に、船員から「下へ下りろ」と言われたらしい)、もしも細野が何らかの“卑劣な”手段で強引に乗り込もうとしたならば、周囲の白人男性に阻止されるか、仮に乗り込めたとしても海面に放り出されるなどされた可能性が高いと考えられる。細野は実際には、13号ボートではなく10号ボートに乗っていた。
- ^ 「恥ずべき行いをした日本人」の例として、当時の小学校教科書に他人を押しのけた誤報が真実として掲載されたことがあった。
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