草野心平
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草野心平(くさの しんぺい、1903年5月12日 - 1988年11月12日)は詩人。福島県上小川村(現・いわき市小川町)出身。
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[編集] 経歴
5人兄弟の次男として産まれる。磐城中学(現・福島県立磐城高等学校)を四年中退した後慶應義塾大学を中退し、中国の広東嶺南大学(現・中山大学)に進学するも、排日運動により、帰国せざるを得なかった。帰国後、雑誌『銅鑼』を主催し、ここに宮沢賢治や八木重吉らを同人に誘い、彼らの作品の紹介に努めた(彼らの没後まで心平は紹介を続けたが、生前に直接面識を得ることはなかった)。1935年、中原中也らと詩誌『歴程』を創刊する。
1938年(昭和13年)2月から4月まで、『帝都日日新聞』の記者として満州・中国に渡りそのときの模様を『支那転々』にまとめている(なお、同時期の日記は現存しない。また南京陥落の1937年12月には南京には滞在していない)。その後、南京に成立した汪兆銘の中華民国国民政府の宣伝部長を務めていた大学の同窓生に誘われ、宣伝部顧問として終戦まで南京に滞在する。在中時代は、焼き鳥屋をやっていた経験を持ち、戦後日本に帰国した際にも「火の車」という焼き鳥店を経営していた。作品の多くに擬声語や句点の駆使されているのが特徴とされる。蛙を主人公とした作品や、富士山を描写した『富岳百景』が代表作とされる。
1953年、福島県川内村長福寺の住職矢内俊晃の招聘で同村平伏沼にモリアオガエルを見に行き、3年後の1956年、平伏沼畔に心平の歌碑が建立される。1960年9月、川内村名誉村民となる。1966年7月、川内村名誉村民の章として天山文庫が建設され、その後毎年7月に天山祭りが開催されるようになる。
1987年には文化勲章を受賞。1998年には彼の功績が称えられ、福島県いわき市にいわき市立草野心平記念文学館が開館した。また、彼の生家は2003年より見学が可能になっている。