言問橋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
言問橋(ことといばし)は、隅田川にかかる橋で、国道6号・東京都道319号環状三号線(言問通り)を通す。西岸は台東区花川戸二丁目と浅草七丁目を分かち、東岸は墨田区向島一丁目と二丁目を分かつ。もともと「竹屋の渡し」という渡船場があった場所である。
目次 |
[編集] 建設の経緯
関東大震災の震災復興事業として計画された橋。両国橋や天満橋と並んで三大ゲルバー橋と呼ばれた長大な橋であり、その直線的で力強いデザインを曲線的で優美な清洲橋と対比させ、川端康成がその著書の中で「隅田川の新しい六大橋のうちで、清洲橋が曲線の美しさとすれば、言問橋は直線の美しさなのだ。清洲は女だ、言問は男だ」と語っている。
[編集] 言問の由来
「言問」という名称は在原業平の詠んだ、
名にしおはば いざこととはん都鳥 わが思う人は ありやなしやと
という歌に因むが、実際にこの業平の故事があったとされている場所は現在の白鬚橋付近にあった「橋場の渡し」でのことであり、言問橋近辺には地名としては存在していたわけではないため多くの説がある。
有力な説としては、1871年(明治4年)の創業でこの地に現在もある言問団子の主人が団子を売り出すにあたって、隅田川にちなむ在原業平をもちだして「言問団子」と名づけ、人気の店となったことからこの近辺が俗に「言問ケ岡」と呼ばれるようになり、それにあわせて業平を祀ったことに由来するというものがある。
[編集] その他
1945年3月10日の東京大空襲のさいには、浅草方面から火に煽られた人々が一斉に橋の上に逃れたが、この橋の上も炎が走り、耐えかねた人々は次々と欄干から身を躍らせ、死体で埋まった隅田川に落ちていったという。空襲が終わったあと、隅田川は一面死体が浮き、言問橋の上にも河川敷にも積み重なった累々たる死体の山が築かれていた。
[編集] 橋の概要
[編集] 関連リンク
[編集] 隣の橋
(上流)-白鬚橋-桜橋-言問橋-東武鉄道伊勢崎線隅田川橋梁-吾妻橋-(下流)
[編集] 関連項目
隅田川 | (上流)―新神谷橋―新田橋―新豊橋―豊島橋―首都高速道路中央環状線隅田川橋梁―小台橋―尾久橋―新交通日暮里・舎人線隅田川橋梁(建設中)―尾竹橋―上水千住水管橋―京成電鉄隅田川橋梁―東京電力隅田川送電橋―千住水管橋―千住大橋―JR常磐線隅田川橋梁―つくばエクスプレス隅田川橋梁―日比谷線隅田川橋梁―千住汐入大橋―水神大橋―白鬚橋―桜橋―東武花川戸鉄道橋―言問橋―吾妻橋―駒形橋―厩橋―蔵前橋―NTT蔵前専用橋―JR総武線隅田川橋梁―両国橋―新大橋―清洲橋―隅田川大橋―永代橋―中央大橋―佃大橋―勝鬨橋―(河口) |
---|---|
古隅田川 | (上流)―境四橋―南新橋―境三橋―旭橋―境一橋―元隅田橋―綾南橋―境田橋―富士見橋―袋橋―北野橋―千鳥橋―古川橋―陸前橋―鵜乃森橋―(下流) |
隅田川支川 | (上流)―相生橋―佃小橋―(下流) |