両国橋
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両国橋(りょうごくばし)は橋の一つで、主に律令制に基づいて設置された日本の地方行政区分の国境にある橋の名称の一つである。似たような例は「国界橋」(こっかいばし)等がある。
- ここでは以下の橋について述べる。
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[編集] 隅田川

両国橋(りょうごくばし)は隅田川にかかる橋で、国道14号を通す。西岸の東京都中央区東日本橋二丁目と東岸の墨田区両国一丁目を結ぶ。橋のすぐ近くには神田川と隅田川の合流点がある。
[編集] 現在の橋の概要
完成当時は言問橋・天満橋と共に「三大ゲルバー橋」とよばれ、技術的にも当時の最先端であった。ガードレール部分には軍配や花火が描かかれ、柱部には両国国技館の屋根を模った飾りを配するなど、デザイン的にも凝ったつくりになっている。
[編集] 歴史
両国橋の創架年は2説あり、1659年(万治2年)と1661年(寛文元年)である、千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された橋。長さ94間(約200m)、幅4間(8m)。名称は当初「大橋」と名付けられていた。しかしながら西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから俗に両国橋と呼ばれ、1693年(元禄6年)に新大橋が架橋されると正式名称となった。位置は現在よりも下流側であったらしい。
江戸幕府は防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかった。しかし1657年(明暦3年)の大火(いわゆる明暦の大火)の際に、「橋が無い」ことで逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人に及んだと伝えられるほどの死傷者を出してしまう。事態を重く見た 老中酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断することになる。架橋後は市街地が拡大された本所・深川方面の発展に幹線道路として大きく寄与すると共に、火除け地としての役割も担った。
両国橋は流出や焼落、破損により何度も架け替えがなされ、木橋としては1875年(明治8年)12月の架け替えが最後となる。西洋風の九十六間(約210m)の橋であったが、この木橋は1897年(明治30年)8月10日の花火大会の最中に、群集の重みに耐え切れず10mにわたって欄干が崩落してしまう。死傷者は十数名にもおよび、明治の世に入ってからの事故ということで、これにより改めて鉄橋へと架け替えが行われることが決定する。
結果、1904年(明治37年)に、現在の位置より20mほど下流に鉄橋として生まれ変わる。曲弦トラス3連桁橋であり、長さ164.5m、幅24.5mと記録に残る。この橋は関東大震災では大きな損傷も無く生き残ったが、他の隅田川橋梁群の復旧工事に合わせて、震災後に現在の橋に架け替えられた。なお、この架け替え時に取り外された両国橋の橋名板が東京都復興記念館に保存されている。
[編集] 南高橋
最後の架け替えの際、損傷のほとんど無かった3連トラスのうち、一連が移設されて、亀島川の最下流、隅田川との合流地点付近にある南高橋となった。この南高橋は都内に現存する鉄橋のうち、川を跨いで実際に利用されている自動車橋としては最も古い(八幡橋(旧弾正橋)が最古であるが、人道橋であり、現在は陸橋)。
[編集] 関係リンク
[編集] 隣の橋
(上流)-蔵前橋―JR総武線隅田川橋梁―両国橋―首都高速道路6号向島線-新大橋-(下流)
[編集] 道志川
両国橋(りょうごくばし)は相模川水系の道志川に架かる橋の一つである。山梨県南都留郡道志村と神奈川県相模原市の県境(相模国・甲斐国境)だったが、現在の境界は橋より少々山梨県側の位置にある。この橋上を国道413号が通っている。橋からすぐの位置に月夜野バス停留所があり、ここを境に運行事業者が変わるため神奈川県方面(三ヶ木行)と山梨県方面(都留方面行)はここで乗り継ぎとなる。
[編集] 小瀬川
両国橋(りょうごくばし)は、山口県・広島県県境を流れる小瀬川に架かる橋。旧周防国と旧安芸国を結ぶことからこの名称がついた。
両国橋は岩国市小瀬と大竹市木野を結んでいる。このルート上には、古代以来山陽道が通っており、江戸時代には渡し船があった。この渡船場から300メートル離れた位置で1917年(大正6)に設置されたのが両国橋である。その後、このルートより東側の海沿いに国道2号が整備されたが、両国橋は国道2号のバイパスルートとして使用されてきた。21世紀に入っても、一日数千台の車両が両国橋を通過している。
[編集] 新町川
両国橋(りょうごくばし)は、徳島県徳島市を流れる新町川に架かる橋。なぜ同県内しかも同市内なのに両国橋なのかというと、昔、徳島藩には、富田支藩という支藩が存在した。その地域に架けられたから両国橋なのである。
両国橋は、江戸時代中頃阿波藍の商人によって架けられた。今の両国橋は、橋の欄干の端の所に阿波踊りの銅像がある。この道は、バス通りで交通量も比較的多い。
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