金沢久幸
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基本情報 | |
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本名 | 金沢 久幸(かなざわ ひさゆき) |
あだ名 | 怪鳥 全日本の頼れるアニキ LAST SAMURAI KANAZAWA |
階級 | ウェルター級(IMTC) |
国籍 | ![]() |
誕生日 | 1972年1月18日 |
出身地 | 日本国埼玉県八潮市 |
命日 | |
死地 | |
スタイル | キックボクシング |
プロキックボクシング戦績 | |
総試合数 | 60 |
勝ち | 32 |
KO勝ち | 15 |
敗け | 23 |
引き分け | 5 |
無効試合 |
金沢久幸(かなざわ ひさゆき、1972年1月18日 -)は埼玉県八潮市出身の日本人キックボクサー兼、格闘技支援病院医療法人俊和会寺田病院リハビリテーション科科長、健康向上企画スポーツメディカルアドバイザー。八潮市の弱小ジムに所属の為、殆ど独学でキックボクシングを学び全日本王者となる。その後、同じ埼玉県内の川口市にジムを設立し世界王者まで上り詰める(現在川口市のジムは知人に譲っている)。 第10代・第12代全日本ライト級王者、元WPKCムエタイ世界スーパーライト級王者、現IMTCムエタイ世界ウェルター級王者。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] プロデビュー
- 1987年4月29日にプロデビュー。
- 1998年7月8日に、当時キックボクシング界でカリスマ的存在だった立嶋篤史に3R跳び膝蹴りでKO勝利しブレイクする。
- 1998年9月19日に全日本キックボクシング連盟とマーシャルアーツ日本キックボクシング連盟の対抗戦で、当時MA側のスーパーフェザー級王者だった山崎道明と対戦。5R判定2-1で勝利を収めた。
- 1998年11月14日には、日本武道館で佐久間晋哉(K-Uフェザー級王者)に、3Rバックブローからの跳び膝蹴りでKO勝ちし、その年のMVP選手に選ばれる。
- 1999年1月25日に行われたシュートボクシングとの対抗戦では、元日本カーディナル級王者若宮一樹と対戦し5R判定3-0で勝利。
- 1999年11月22日にWKAヨーロッパ・ライト級王者のグレコリー・トロンビニー(フランス)に3RバックブローでKO勝利。この試合の前に金沢の母親が亡くなり、リング上での亡き母への勝利報告には関係者一同涙した。
- 2000年9月13日にニュージーランド・ムエタイライト級王者のデビッド・ガーンにハイキックとパンチで4RKO勝利。
- 2001年5月20日全日本キックボクシング連盟とマーシャルアーツ日本キックボクシング連盟の対抗戦で、今度は当時MA側のライト級王者だった井上哲と対戦。2Rにハイキックでダウンを取り文句なしの判定勝利。この試合で井上は完敗を認め、対抗戦の敗戦の責任を取るためMAライト級王者を返上する。
- 2001年6月17日にはタイ王国・ラジャダムナン・ライト級1位のサッダム・ギャットヨンユットにバックブローを浴びせパンチでKO勝ちした金沢は本場タイの新聞にも紹介された。
- 2001年11月30日ISKAニュージーランド・ウェルター級王者ニック・ミッチに多彩な攻撃を効かせて5R判定3-0で勝利。
- 2002年4月28日全日本キックボクシング連盟とマーシャルアーツ日本キックボクシング連盟の対抗戦で後にUKF世界スーパーライト級王者になる武藤孝行(当時MA側のライト級王者)と対戦。5R判定2-1で勝利。
- 2004年12月5日に全日本キックボクシング連盟とJ-NETWORKの対抗戦で、当時J-NET側のウェルター級王者だったSHIN(アクティブJ)と対戦。パンチでダウンを2度奪い3R判定3-0で勝利。
- 2005年2月26日イタリア・ジェノヴァで WPKCムエタイ世界ウェルター級王者イッティポン・アッカスリボーン(タイ)に5R飛び膝蹴りでKO勝利。
[編集] 日本王座獲得
1999年5月11日に、「WAVE-Ⅲ」で行われた第10代全日本ライト級王座決定戦で島野智広(同級2位)と対戦し、5R判定3-0で下し王座を獲得した。翌年1月21日に、「LEGEND-I」で行われた防衛戦で、小林聡(同級1位)に5R判定3-0で破れ王座を失う。両者は1997年9月にも対戦しており、その時も小林がKOで勝利していた。さらに翌年1月4日には、「THE CHAMPIONSHIP」で行われた第12代全日本ライト級王座決定戦で林亜欧(同級3位)と対戦し、5R判定3-0で下し王座を取り戻すことに成功した。この後、第13代全日本王座は林が獲得することになる。
[編集] 世界王座獲得
2001年8月10日に「HOT SHOT」で行われたWPKCムエタイ世界スーパーライト級王座決定戦でオスマン・イギン(ベルギー / WMTA世界ライト級王者)と対戦。5R判定0-2で勝利し新王者になった。翌年11月24日にイタリアのパドヴァで行われた「KICKBOXING MONDIALE 3 LA GRANDE SFIDA」のWPKCムエタイ世界スーパーライト級タイトルマッチでマテオ・トレビサン(イタリア)と対戦。飛び膝蹴りによりマテオが負傷したため、レフェリーストップによる3RTKO勝ちとなり防衛に成功した。 しかし、2003年5月31日にイタリアのモデナで行われた「JAPANESE ATTACK! ~Night of the SAMURAI~」で、ロベルト・バッシリ(イタリア / WPKCイタリア・スーパーライト級王者)と対戦。前日軽量でも体重をオーバーするなど調整不足のためか動きに精彩を欠き、5R判定負けで王座を失った。
2004年1月から社団俊和会寺田病院のリハビリテーション科科長として働きはじめる。
[編集] 2つ目の世界王座獲得
2005年5月28日にアメリカのラスベガスで行われたIMTCムエタイ世界ウェルター級王者決定戦で、トム・ジョーンズ(アメリカ / IKKCアメリカ王者)を1R1:24KOで下し、新王者になった。
2005年9月3日に東京都足立区立第六中学校で講演会を行う。
2006年8月27日に「S.W.S.~Super Weiter Struggle~」で石黒竜也(NJKFウェルター級2位)と対戦。この試合は両者ともに反則を応酬する荒れた試合となった。金沢は、踏み付け、頭突き、タックル、場外逃避など反則攻撃をもらい、自身もブレイク直後にハイキックを出すなどした。相手側の減点が響き、3R判定3-0で勝利した。この試合では、石黒にはレッドカードが3枚、金沢にもセコンド乱入によりレッドカードが1枚渡された。この試合はフジテレビSRSのキャスター浅草キッド、西山茉希 が来ていたが、あまりの荒れ試合によりTVでは全てカットされオンエアーされなかった。西山茉希は試合を見ながら涙ぐんでいた。 同年11月5日に東京のディファ有明で行われた「M-1 FAIRTEX SHINGHA BEER ムエタイチャレンジ ~タイ国王即位60周年記念杯2006~」のM-1ウェルター級王座決定戦で、ゲンナロン・ウィラサクレック(タイ / BBTV認定ウェルター級王者)と対戦。右肘打ちをもらい、2R1:38KO負けし、王座獲得にはならなかった。
[編集] 戦績
- プロキックボクシング戦績: 60戦 32勝 15KO 23敗 5分
[編集] 獲得タイトル
- 1998年度全日本キックボクシング連盟最優秀選手賞
- 第10代全日本キックボクシング連盟ライト級王座
- 第12代全日本キックボクシング連盟ライト級王座
- WPKCムエタイ世界スーパーライト級王座(防衛1度)
- IMTCムエタイ世界ウェルター級王座
[編集] 備考
- バックブロー、跳び膝蹴りなど彼のスタイルは派手な技が多くKO勝ちはとても壮絶で4回担架が出た。
- 独学で始めた為、当時のムエタイスタイル主流の中、派手な技が多い彼のスタイルは玄人には受け入れられなかったようである。観客から「お前のはキックボクシングじゃねえ!」と良く罵倒されたと雑誌のインタビューで答えていたが、今は非常に良く使われる技となり業界の進展に貢献したと言えよう。
- 入場テーマである「希望の鐘が鳴る朝に」はTHE ALFEEのラジオ番組「『坂崎さんの番組』という番組」での競演で直接本人から送られた曲である。金沢はお礼にパンチグローブとキックミットを贈った。
- THE ALFEEの坂崎幸之助にパンチグローブとキックミットを贈った時に試しにミット練習をしたら坂崎幸之助は意外とパンチが上手かったようである。
- 坂崎幸之助のラジオ番組に出演したのは当時フジテレビSRSのキャスターだった畑野浩子の紹介で出演が決まった。ちなみに畑野浩子は同じ埼玉県の隣町(松伏町)出身。
- 魔裟斗がAJジムで練習していたときに私用で訪れていた金沢に「跳び膝蹴りを教えてください!」と言ったが「君のスタイルには合わないでしょ!」と断った。たまたま魔裟斗が冗談で言ったようである。
- 2007年4月でデビュー満20年になる。
- 海外で人気が高い選手で、これまでにベルギー(1回)、イタリア(3回)、オランダ(1回)、アメリカ(2回)、韓国(2回)で試合をしており、映画の影響もあってか「LAST SAMURAI KANAZAWA」と紹介されている。イタリアのマガジンの表紙にもなったことがある