雍仁親王妃勢津子
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秩父宮雍仁親王妃勢津子(ちちぶのみややすひとしんのうひせつこ、旧名:松平 節子(まつだいら せつこ)、1909年(明治42年)9月9日 - 1995年(平成7年)8月25日)は、日本の皇族。大正天皇の次男である秩父宮雍仁親王の妃。
元の名は「節子」で、成婚の際に雍仁親王の実母である貞明皇后(「節子(さだこ)」)の諱を避けて同音異字の「勢津子」に改めた。 旧會津若松藩主松平容保の四男で外交官の松平恒雄(1877年-1949年)の長女。母は佐賀藩十一代・侯爵鍋島直大の娘・信子。 嫡家を嗣いだ叔父、海軍少将・子爵松平保男(1878年 1944年)の養女。東京銀行会長の任に在った実弟・松平一郎は、徳川宗家第十七代当主・家正の娘・豊子を夫人に迎え、徳川宗家第18代当主・恒孝をもうけた。
恒雄は外交官試験に首席で合格した俊才として知られ、駐米・英特命全権大使を歴任し、また第二次世界大戦後の初代参議院議長を務めた。
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[編集] 略歴
勢津子は父の任地イギリスで生まれ、父と共にワシントンの大使館で少女期を過ごし、米国のフレンドスクールに学んだ。 女子学習院初等科3年の時、実業家樺山愛輔の次女白洲正子と同級生となり、以後2人は生涯の友となった。 その正子によれば、勢津子は物事に寛容で、勉学に励む人であったという。 両家は仲が良く、愛輔はのちに貞明皇后の内意を受けて雍仁親王と勢津子の婚姻を取り持った。
奇しくも戊辰戦争と同じ干支の1928年(昭和3年)9月28日、昭和天皇の皇弟・秩父宮雍仁親王と婚儀。一時には「逆賊」の汚名を着せられた松平容保の孫にあたる勢津子の皇室への入輿は、会津士族の徹底的な復権に繋がったとも言え、会津人の感激は並ならぬものであったという。余談ではあるが、大正天皇の四皇子(昭和天皇・雍仁親王・高松宮宣仁親王・三笠宮崇仁親王)のうち、崇仁親王妃百合子を除く三親王妃(香淳皇后・勢津子・宣仁親王妃喜久子)は、いずれも幕末の将軍もしくは大物佐幕派の孫であり、本人たちもそれを笑い話にしていたと言われる。
雍仁親王は1953年(昭和28年)1月4日に肺結核の持病で死去。 その後、残された勢津子は結核予防会総裁を長年にわたり務めた。1995年(平成7年)8月25日、85歳の生涯を閉じて豊島岡墓地の雍仁親王と同じ墓に葬られた。秩父宮家は勢津子の死去により絶家となった。
[編集] 備考
- 1971年にイギリスのJ. ハークネスから捧げられた、プリンセスチチブという名のオレンジピンクの薔薇に、その名を付けられていることでも有名。
- 雍仁親王は日本アルプスを好み、肺結核に罹病する前はよく登山に訪れた。現地でのガイドは「上高地の常サ」(内野常次郎(1884年~1949年))が付くのが恒例であった。山の主である常サは勢津子を「オカミサン」と呼んで周囲をハラハラさせたが、秩父宮は逆に「常さん、おかみさんでいいよ」と言ったとされる。
- 香淳皇后、宣仁親王妃喜久子と共に、明仁と正田美智子の結婚について“平民からなんてとんでもない話”と反対する立場で一致したりもした。入江相政の日記より。
- 年来のかかりつけの美容師が吉行あぐり。勢津子逝去まで顧客と美容師としてのよき付き合いが続いた。
[編集] 著作
- 『銀のボンボニエール』(主婦の友社、1991年) ISBN 407937190X
- 『銀のボンボニエール-親王の妃として』(講談社+α文庫、1994年) ISBN 4062560712
[編集] 参考文献
- 秩父宮殿下御成婚記念会『秩父宮と勢津子妃』(渡辺出版、2003年) ISBN 4902119013
- 1928年(昭和3年)9月28日の秩父宮夫妻の成婚を祝福し刊行された非売品限定出版物の復刻版。