明仁
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明仁(あきひと、1933年(昭和8年)12月23日午前6時39分 - )とは、日本の今上天皇(第125代の天皇)。大勲位。昭和天皇と香淳皇后の第一皇子で、称号は継宮(つぐのみや)。印は榮(えい、桐の別名)。皇室典範に定める敬称は陛下。
目次 |
人物
高齢にも関らず、公務、宮中祭祀ともに極めて旺盛に活動しており、天皇としての活動について非常に意欲的かつ勤勉であると伝えられることが多い。
歴代の天皇のなかでは明治天皇および特に昭和天皇に寄せる気持ちが強いようであるが、皇太子時代には後水尾天皇に言及したこともある。また即位十周年の会見で述べているように、戦中育ちとして先の大戦に寄せる気持には強いものがあり、過去に「6月23日(沖縄慰霊の日)、8月6日(広島原爆忌)、8月9日(長崎原爆忌)、8月15日(終戦記念日)の四つは忘れる事の出来ない日付である」旨の発言もある。かつて琉球を征服した島津家の血を引いていることから、沖縄への思いは深く、琉歌を幾つか詠んでいる。琉歌を詠んだ天皇は史上初めてである。
ハゼの分類学的研究者であり、日本魚類学会に属して28編の論文を同学会誌に発表している。平成12年(2000年)には海外誌Geneに第一著者として論文が掲載されている。また平成4年(1992年)にはScience誌に"Early cultivators of science in Japan"という題の寄稿を寄せている。
魚類学における業績は各国で評価されている。
- 昭和55年(1980年)、ロンドン・リンネ協会外国会員。昭和61年(1986年)、同協会名誉会員。
- オーストラリア博物館リサーチ・アソシエート。
- ロンドン動物学会名誉会員。
- アルゼンチン自然科学研究所永久名誉会員。
この他にも平成10年(1998年)にはロンドン王立協会(ロイヤル・ソサエティ)からチャールズ2世メダルを受賞している。
昭和45年(1970年)からチェリストの清水勝雄に師事してチェロをたしなむほか、テニスをよくする(これは皇后と知り合うきっかけにもなった。いわゆる「テニスコートの恋」である)。1992年にジョージ・ブッシュ大統領が来日した際には、ブッシュ大統領とマイケル・アマコスト駐日大使とダブルスで対戦し、2ゲームに全勝したという。
誕生
宮城(現:皇居)内の産殿にて誕生。当時の皇室慣例により、満3歳で両親のもとを離れ、赤坂離宮構内の東宮仮御所で東宮傅育官によって育てられる。
昭和19年(1944年)、戦火の拡大により、はじめは栃木県日光市の田母澤御用邸に、後に奥日光・湯元の南間ホテルに疎開し、当地で敗戦を迎えた。終戦後帰京。皇太子は陸海軍少尉に任官するのが常であり、軍部からも要請があったが、昭和天皇の意向で任官していない。
昭和21年(1946年)10月から昭和25年(1950年)12月まで、昭和天皇の「西洋の思想と習慣を学ぶ」という方針に従い、アメリカ合衆国の著名な児童文学者にしてクエーカー教徒のエリザベス・グレイ・ヴァイニング(ヴァイニング夫人)(en:Elizabeth_Gray_Vining)が家庭教師として就き、その薫陶を受ける。これと前後して、学習院にやってきたアメリカ人教師に英語名(ジミーと伝わる)をつけられるのを拒否するというエピソードが起こっている。
昭和27年(1952年)11月10日、京都御所で立太子礼が行われた。
昭和28年(1953年)、イギリスのエリザベス2世の戴冠式に昭和天皇の名代として参列するために初の外遊。ヨーロッパおよび米国を歴訪。このとき身分は皇太子であったが、昭和天皇の名代の格式が加わっていたため、応接する諸国では天皇としての対応を行った。
昭和33年(1958年)11月、正田美智子との結婚を皇室会議で内定。
昭和34年(1959年)4月10日結婚。明治以降では初の皇族以外(華族出身でもない)での皇太子妃であった為に、また結婚に至る過程が報道されたこともあって国民的な「ミッチー・ブーム」がおこる。成婚のパレードは盛大に行われ、国民の心からの祝福を受けた。もっとも香淳皇后や皇族の長老特に高松宮、秩父宮の両親王妃たちからは猛反発を受け、昭和天皇が仲介を行ってようやく落ち着いたとも言われる。
昭和35年(1960年)に浩宮徳仁親王降誕。この日は奇しくも、太平洋戦争において硫黄島に星条旗が翻った日であり、内地の領土が初めて失われた日であった。同年秋には皇太子妃美智子を伴ってアメリカ合衆国を16日間訪問旅行した。ホワイトハウスにも招かれている。
昭和38年(1963年)には美智子妃の第二子流産もあり、また子育てには時代の風潮などもあり、当時の皇太子妃美智子共々、苦労が多かった。「浩宮の代で最後になるのか」との発言もあったと言われる。
しかし昭和40年(1965年)、昭和天皇に最も愛された皇子礼宮文仁親王が降誕。気さくな一方、幼少より帝王学教育を受け皇族としての自覚強く、皇統存続にも尽力する親王は夫妻の信頼篤く、関係は今日に至るまで極めて良好である。
昭和44年(1969年)には第一皇女紀宮清子内親王が降誕。清子内親王は長く、夫妻の良き相談相手であった。両御子とその家族は今日に至るまで、ことに平成期に入って以降は天皇皇后のよき支えである。
昭和50年(1975年)、沖縄国際海洋博覧会に際し父帝も皇太子時代に行啓した沖縄を立太子後はじめて訪問。7月17日、皇太子妃美智子を伴いひめゆりの塔に献花のため訪れたところ、過激派から火炎瓶を投げつけられる(ひめゆりの塔事件)。このころから白髪であった。
即位
昭和天皇の崩御により、昭和64年(1989年)1月7日に皇位を継承。翌日、元号が平成に改められる。はじめて関東の地で即位した天皇である。即位に際しての混乱は全くなかった。朝見の儀での「国民と共に日本国憲法を守り、国運の一層の進展と世界平和、人類の福祉の増進を切に希望して止みません」という発言が話題となる。一方で、憲法の精神を守りつつ平成の天皇のあり方を模索している。イラクに派遣された自衛隊を皇后とともに接見した。これはPKOで派遣された自衛隊員、災害救助にあたった自衛隊員に対する接見はすでに行っているが、これは異例のことであり、昭和の頃には考えられなかったといわれている。また、政財界や学識者の内奏、進講、父の昭和天皇以上に受けている。「(憲法第4条すれすれの)ストライクゾーンに精一杯(ボール)を投げ込んでいる」(岩井克巳、文藝春秋より)とも評される。また昭和天皇が終戦で喪ったものを慰霊の旅を通して、昭和の負の遺産に向き合うことによって抱え込んでおり、その精励ぶりは歴代天皇では群をぬいている。
即位後も旺盛に国内外の訪問を行っている。平成5年(1993年)には昭和天皇の悲願であった沖縄行幸を果たし、平成15年(2003年)までに47都道府県のすべてを訪問している。
- 平成3年(1991年)
- 平成4年(1992年)
- 中国。
- この訪問は行うべきでなかったとの批判が強い。
- 中国。
- 平成5年(1993年)
- 平成6年(1994年)
- 平成9年(1997年)
- 平成10年(1998年)
- 平成12年(2000年)
- 平成14年(2002年)
- 平成17年(2005年)
- 平成18年(2006年)
- シンガポール、マレーシア、タイ
- サイパン島訪問時、韓国人の団体が天皇の通り道に不敬な内容の横断幕を張り出したが、天皇を慕う地元のチャモロ族の猛然たる抗議を受けて取り外したというエピソードがある。
- シンガポール、マレーシア、タイ
平成11年(1999年)に即位10周年を迎え、政府主催で11月20日に在位10年記念式典が開催、同日夜には二重橋で祝賀の声に応える一齣もあった。この折に、宮内庁は即位10年記録集『道』を刊行している。
平成7年(1995年)、大腸のポリープを摘出。後に前立腺癌であることが公表され、平成15年(2003年)1月18日に、前立腺の全摘出手術をおこなった。
エピソード
誕生
- 第五子にして初めて降誕した親王であっただけに、その誕生は非常な喜びをもって受け止められた。その奉祝ムードは実に盛大なもので、都内では提灯行列が出た。「皇太子さまお生まれなつた」(作詞:北原白秋/作曲:中山晋平)との歌までが作られたほどである。当時小学生であった老人などには前述の歌を未だに記憶しており、歌うことができる者もいるほどである。
- 誕生に際しては「日嗣の御子は生れましぬ」との和歌も詠まれており、生まれながらの皇太親王であった。
皇太子時代
- 学習院初等科入学に際し、おかっぱに伸ばしていた髪を無断で刈られ数日間ふさぎこんでしまった。その後「これからは、だまってこんなことはしないでね」と精一杯の抗議をした。
- 戦時中は奥日光・湯元の南間ホテルに疎開した。この時、昭和天皇から手紙を送られている。
- 疎開先で戦況についての説明を受けた際、特攻に対して疑問を感じ、「それでは人的戦力を消耗する一方ではないか?」と質問して担当将校を返答に窮させたという。
- 敗戦時の玉音放送の際にはホテルの二階の廊下に他の学習院生と一緒にいたが、皇太子という立場を慮った侍従の機転によって(内容が内容だけに、何が起こるか分からない)御座所に引き返して東宮大夫以下の近臣と共に放送を聞いた。放送の内容には全く動揺を示さなかったが、放送が終わると静かに涙を流し、微動だにしなかったという。
- その後、東宮大夫から玉音放送についての説明を受けると疾く悲しみから立ち直り、敗戦からの復興と国家の再建を率いる皇太子、将来の天皇としての決意を固めた。当日の日記にも、強い決意が記された。
- 1953年(昭和28年)6月2日のエリザベス2世戴冠式のために3月30日から外遊した結果、単位不足で進級できず学習院大学政経学部を中退。この為、最終学歴は「学習院大学教育ご修了」となっている。もっともその後も聴講生として大学には残った。
- 上記のエリザベス女王載冠式に伴うヨーロッパ外遊の際には横浜港から太平洋航路の客船プレジデント・ウイルソン号(アメリカンプレジデント社、速度19ノット、排水量1万5395トン)に乗船した。同船は三島由紀夫もこの2年前に乗船したことがあり、日本人とは縁の深い船であった。日本人向け遊具として囲碁板と石も積まれていたほどである。このときNHKは600ミリ望遠レンズを使用して、甲板に立つ皇太子の姿をアップで撮影することに成功して視聴者を驚かせた。船上では早稲田大学バレーボール部の面々と記念撮影をし、麻雀も楽しんだ。
- 欧州到着後はドイツでF1GPを観戦。主催者の提案により表彰式のプレゼンターも務め、優勝したジュゼッペ・ファリーナ(フェラーリ所属。戦前からの名選手で、1950年には初代F1チャンピオンを獲得している)を祝福している。日本人で初めてF1GPの表彰台に上がった人物である。平成初期1991年のF1ブームを思うと、奇縁というべき出来事である。この時には、「競馬より面白い」との言葉を残している。
- 戴冠式では前列に座した。隣席はネパールの王子だった。
即位後
- 即位の際には明治神宮から御本社大神輿が渡御した。
- アメリカ41代大統領ジョージ・H・W・ブッシュ・シニアと1992年の来日時に2回、テニスでダブルスの試合をしているが、2回とも勝利している。特に2回目のブッシュの敗北は彼にとってショックだったらしく、その夜に首相官邸で行われた晩餐会の席上にて倒れてしまった(もちろんテニスのことで倒れたわけではなく、インフルエンザ発症であったのだが)。このあと妻バーバラ・ブッシュがフォロースピーチでこの敗北ネタをジョークにするなどして話題を呼んだ。
- 阪神淡路大震災に際しても地に膝をついて被災者を見舞った。このエピソードは海外の新聞にも大きく取り上げられ、被災者は天皇の慰めに涙を流したと伝えられた。この際には動転した被災者が皇后に抱きつくという出来事もあったが、咎めることなく暖かく見守り、黙って許した。
- 新潟県中越地震のときには自衛隊のヘリコプターで被災地にお見舞いをした。
- 2000年に噴火した三宅島の帰島がかなった2006年には火山ガスの発生の恐れがまだあるにもかかわらず三宅島を慰問。島民を励ました。
- 能登半島地震にさいしては慰問はまだ行われていないが「元気になってください」と言葉を寄せた。
- 2006年の台風14号で大きな被害を受けた宮崎県、鹿児島県に見舞い金として金一封を贈った。
- チェロの師である清水勝雄の死に際しては追悼演奏を行い、故人を偲んだ。会見においても、その人柄を回想していた。
- 徳仁親王との関係は同親王の昭和天皇の意志に背いた結婚以来、同親王の妃にして皇太子妃となっている雅子の存在も手伝って極めて疎遠となっている。昨今では苦言とも深い怒りとも理解できる内容の発言もなされている。
- 上記のように徳仁親王家との間が極めて疎遠になっていることから、愛子内親王と会う機会、時間が少なくなっていることを慨嘆する発言をしている。2006年に生物学研究所の陸稲(おかぼ)の田植に愛子内親王が手伝いにきた時には、大変な喜びようであったといわれる。しかし宮内庁職員組合の文化祭では愛子内親王の紙粘土の宝石箱を見なかった。東宮職が皇居までそれを届けると「良くできていますね」と発言。その後「でも、本人が持って来て見せてくれればもっと良かったのに」と発言した。昨今では内親王の称号を呼ばず名前を直接呼んでいる。
- 徳仁親王家との関係の悪化や平成の皇室にまつわる諸問題に憂慮しており、夜に眠れないこともあり、侍医に睡眠薬を処方してもらうことも多いという。2005年、皇籍を離れる前の最後の誕生日会見において紀宮清子内親王は天皇のこうした状況を気遣う発言をした。この発言には多くの国民が支持を寄せている。
- 一方で秋篠宮家との関係は極めて良好であり、悠仁親王の降誕時には公務にて北海道を訪れていたが、国民の祝福の声に対してその場に立ち止まって何度も「ありがとう」と答え手を振り、大きな喜びを表した。この場面が報道された後、インターネットの掲示板やブログにはこの日を含め多くの公務に精励する天皇の健康を気遣う書き込み、これまでの心痛を思う書き込みが多数なされた。
人物に関するもの
- 独身時代には愛車グロリアでドライブを楽しんでいた。軽井沢において学友の所有するアルファロメオを運転したこともある。このほかアコード、レジェンドクーペなど運転したことがあるとされる車種は非常に多く、自動車愛好家たちの天皇に寄せる思いが伝わる。
- 軽井沢までドライブした際には護衛としてパトカーに乗車した警察官が随伴したが、随伴する警察官の乗車するパトカーは性能に劣る国産車であったため、性能差からついていくのに必死の思いであったという。
- 通産9台のプリンスを御召料としている。嘗ての御料車がプリンス製の日産・プリンスロイヤルだったのはその縁である。
- 自動車評論家として知られる徳大寺有恒は、皇太子時代の天皇が運転するプリンス・スカイライン・スポーツと対向車として遭遇し、大いに驚いた体験を自著に書き残している。
- 現在でもビートルをまれに運転することがあるという。
- 鉄道に関する関心も深く、学習院大の卒論はヨーロッパの鉄道史に関する内容であったと言われる。
- 学生時代、(学習院高等科3年の試験が終わった日)学友である橋本明(橋本龍太郎の従兄弟)に「銀座にいきたい」と相談し、学友が「いつがいいか?」と尋ねると「今日がいい」と答えた。「一人ではなくもう一人つれていこう」と提案し、承諾(もう一人は千家崇彦)。新任だった東宮侍従濱尾実など仕えている周りの人間を「今宵、殿下を目白の方にご案内したい」など騙して抜け出すことに成功し、3人で銀座をぶらついた。このとき銀座4丁目あたりで慶応ボーイ4人と出会い、慶応ボーイは「殿下こんばんは」と挨拶したという。高級喫茶店「花馬車」で橋本の彼女と合流し皆で、お金を出し合い一杯99円のコーヒーを飲み、洋菓子屋「コロンパン」でアップルパイと紅茶を楽しんだり、満喫したようだが、当然ながらすぐに事件は発覚。大騒ぎになり、目的地を知り居場所を突き止められると、銀座にいた彼の周りに警官が20~30メートルおきに配置されてしまい、これ以上散策が出来なくなり終了した。もちろん、連れ出した学友2名が警察と皇室関係者に烈火のごとく叱られたのは言うまでも無い。これが有名な『銀ブラ事件』である。
- ご成婚のパレードは当時民間放送開始から5年目で、未だ高嶺の花だったテレビの普及に大いに貢献した。
- 皇太子時代、タイ王室からタイ国民の蛋白質不足について相談を受け、養殖の容易なティラピアを50匹寄贈した。タイではこのティラピアを大いに繁殖させて、バングラデシュの食糧危機に際して50万匹を寄贈した。のちにこの魚には華僑によって「仁魚」という漢名がついた。
- 靖国神社には皇太子時代に5回参拝しているが、即位後は参拝していない。
発言
- 『ご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げられる方』(昭和33年(1958年)11月27日)
- 婚約記者会見でどういう所に魅力を感じたかを訊かれて、美智子妃の皇太子評。流行語にもなった。
- 『国民と共に日本国憲法を守り、国運の一層の進展と世界平和、人類の福祉の増進を切に希望して止みません』(平成元年(1989年)1月9日)
- 『皆様が雨に濡れて寒いのではと案じています』(平成11年(1999年)11月20日、在位十年記念式典で)
- 「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」(2001年12月)
- 「私にとっては沖縄の歴史を紐解くということは島津氏の血を受けている者として心の痛むことでした。しかし、それであればこそ沖縄への理解を深め、沖縄の人々の気持ちが理解できるようにならなければならないと努めてきたつもりです。沖縄県の人々にそのような気持ちから少しでも力になればという思いを抱いてきました」(2003年12月23日)(注:香淳皇后の母が島津家の出身である)
- 「やはり、強制になるということではないことが望ましい」(2004年10月28日 園遊会で)
- 「日本は昭和の初めから昭和20年の終戦までほとんど平和な時がありませんでした。この過去の歴史をその後の時代とともに正しく理解しようと努めることは日本人自身にとって、また日本人が世界の人々と交わっていく上にも極めて大切なことと思います。戦後60年に当たって過去の様々な事実が取り上げられ、人々に知られるようになりました。今後とも多くの人々の努力により過去の事実についての知識が正しく継承され、将来にいかされることを願っています」(2005年12月19日)
- 「皇室の中で女性が果たしてきた役割については、私は有形無形に大きなものがあったのではないかと思いますが、皇室典範との関係で皇室の伝統とその将来についてという質問に関しては、回答を控えようと思います。私の皇室に対する考え方は、天皇及び皇族は、国民と苦楽を共にすることに努め、国民の幸せを願いつつ務めを果たしていくことが(中略)、皇室の伝統ではないかと考えているということです」(同上)
- 「戦前と今日の状況では大きく異なっている面があります。(中略)戦前は議員や国民が自由に発言することは非常に難しかったと思います。先の大戦に先立ち、このような時代のあったことを多くの日本人が心にとどめ、そのようなことが二度と起こらないよう日本の今後の道を進めていくことを信じています」(2006年6月6日)
- 「皇太子の記者会見の発言を契機として事実に基づかない言論が行われ、心の沈む日も多くありました(中略)苦しいことでした」(2006年の天皇誕生日)
- 「残念なことは、愛子は幼稚園生活を始めたばかりで、風邪をひくことも多く、私どもと会う機会が少ないことです(中略)いずれ会う機会が増えて、打ち解けて話をするようになることを楽しみにしています」(2006年天皇誕生日)
系譜
系図
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(122)明治天皇 |
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(123)大正天皇 |
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(124)昭和天皇 |
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(125)今上天皇 |
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徳仁親王 (皇太子) |
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(秩父宮) 雍仁親王 |
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(常陸宮) 正仁親王 |
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(秋篠宮) 文仁親王 |
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悠仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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(高松宮) 宣仁親王 |
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寛仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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(三笠宮) 崇仁親王 |
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(桂宮) 宜仁親王 |
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(高円宮) 憲仁親王 |
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- 高祖父:統仁(孝明天皇)
- 高祖母:夙子(英照皇太后)
- 高祖母:慶子(中山慶子、明治天皇生母)
- 曾祖父:睦仁(明治天皇)
- 曾祖母:美子(昭憲皇太后)
- 曾祖母:愛子(柳原愛子、大正天皇生母)
- 祖父:嘉仁(大正天皇)
- 祖母:節子(貞明皇后)
- 父:裕仁(昭和天皇)
- 母:良子(香淳皇后)
- 妻:美智子(皇后)
- 長男:徳仁(皇太子、称号:浩宮)
- 次男:文仁(称号:礼宮、現:秋篠宮)
- 孫:悠仁
- 長女:清子(称号:紀宮、現:黒田清子)
- 弟:正仁(称号:義宮、現:常陸宮)
著書
- 『日本産魚類大図鑑 = The fishes of the Japanese archipelago』益田一ほか編、東海大学出版会、1984年12月、ISBN 4486050533(図版)、ISBN 4486050533(解説)、ISBN 4486050541(Text)
- 論文『ハゼ科魚類の進化』を所収するほか、ハゼ亜目魚類の項目を第2版で共同執筆)
- 『日本の淡水魚』川那部浩哉、水野信彦編・監修、山と溪谷社、1989年11月、ISBN 4635090213(チチブ類の項目を執筆)
- 『ともしび : 皇太子同妃両殿下御歌集』宮内庁東宮職編、婦人画報社、1986年12月
- 『道 : 天皇陛下御即位十年記念記録集』宮内庁編、日本放送出版協会、1999年10月、ISBN 414080467X
- 『日本産魚類検索 : 全種の同定』中坊徹次編、東海大学出版会、2000年12月、ISBN 4486015053(ハゼ亜目魚類の項目を共同執筆)
関連項目
外部リンク
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歴代天皇一覧 | |||||||||
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1 神武 | 2 綏靖 | 3 安寧 | 4 懿徳 | 5 孝昭 | 6 孝安 | 7 孝霊 | 8 孝元 | 9 開化 | 10 崇神 |
11 垂仁 | 12 景行 | 13 成務 | 14 仲哀 | 15 応神 | 16 仁徳 | 17 履中 | 18 反正 | 19 允恭 | 20 安康 |
21 雄略 | 22 清寧 | 23 顕宗 | 24 仁賢 | 25 武烈 | 26 継体 | 27 安閑 | 28 宣化 | 29 欽明 | 30 敏達 |
31 用明 | 32 崇峻 | 33 推古 | 34 舒明 | 35 皇極 | 36 孝徳 | 37 斉明 | 38 天智 | 39 弘文 | 40 天武 |
41 持統 | 42 文武 | 43 元明 | 44 元正 | 45 聖武 | 46 孝謙 | 47 淳仁 | 48 称徳 | 49 光仁 | 50 桓武 |
51 平城 | 52 嵯峨 | 53 淳和 | 54 仁明 | 55 文徳 | 56 清和 | 57 陽成 | 58 光孝 | 59 宇多 | 60 醍醐 |
61 朱雀 | 62 村上 | 63 冷泉 | 64 円融 | 65 花山 | 66 一条 | 67 三条 | 68 後一条 | 69 後朱雀 | 70 後冷泉 |
71 後三条 | 72 白河 | 73 堀河 | 74 鳥羽 | 75 崇徳 | 76 近衛 | 77 後白河 | 78 二条 | 79 六条 | 80 高倉 |
81 安徳 | 82 後鳥羽 | 83 土御門 | 84 順徳 | 85 仲恭 | 86 後堀河 | 87 四条 | 88 後嵯峨 | 89 後深草 | 90 亀山 |
91 後宇多 | 92 伏見 | 93 後伏見 | 94 後二条 | 95 花園 | 96 後醍醐 | 97 後村上 | 98 長慶 | 99 後亀山 | 100 後小松 |
北朝 | 1 光厳 | 2 光明 | 3 崇光 | 4 後光厳 | 5 後円融 | 6 後小松 | |||
101 称光 | 102 後花園 | 103 後土御門 | 104 後柏原 | 105 後奈良 | 106 正親町 | 107 後陽成 | 108 後水尾 | 109 明正 | 110 後光明 |
111 後西 | 112 霊元 | 113 東山 | 114 中御門 | 115 桜町 | 116 桃園 | 117 後桜町 | 118 後桃園 | 119 光格 | 120 仁孝 |
121 孝明 | 122 明治 | 123 大正 | 124 昭和 | 125 今上 | ※赤字は女性天皇 |