三笠宮崇仁親王
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三笠宮 崇仁親王(みかさのみや たかひとしんのう 、1915年(大正4年)12月2日 - )は、大正、昭和、平成期の日本の皇族。大正天皇と貞明皇后の第四皇子。昭和天皇の弟であり、今上天皇の叔父にあたる。宮号は三笠宮。三笠宮の宮号は、1935年(昭和10年)12月2日に親王が成年式を行った際に賜ったもので、奈良市の三笠山にちなんで命名された。印は若杉。
山本子爵家山本實庸の末子として育てられた奈良円照寺門跡山本静山尼(1916-1995年)が、実は三笠宮の双子の妹(絲子内親王)との異説もある(河原敏明著「昭和天皇の妹君」)。
皇位継承順序第5位。内閣告示や宮内庁告示等の表記では、皇族に宮号が冠されることはなく(「皇太子」を除く)、それらの告示が掲載される官報では、「崇仁親王」と表記される。一方、同じ政府による表記でも、国民一般向けのホームページなどでは、宮号を用いて表記される。皇室典範に定める敬称は殿下。
勲等は大勲位、階級は陸軍少佐(戦前当時)。称号は東京芸術大学名誉客員教授。戦前は貴族院議員(皇族議員)も務めた。戦後は日本赤十字社名誉副総裁をはじめ文化・福祉関係団体の名誉総裁や総裁を務める他、大学での教壇にも立ち、東京芸術大学美術学部の客員教授なども務めた。フランスの「碑文・文芸アカデミー」の外国人会員、ロンドン大学東洋・アフリカ研究学院の名誉会員でもある。
古代オリエント史、特にアナトリア考古学を専門とする歴史学者として知られ、長らく東京女子大学等で古代オリエント史の講義を担当。東京都三鷹市の財団法人中近東文化センター設立にも尽力した。また同センター総裁として、トルコ共和国でのカマン・カレホユック遺跡の発掘調査をすすめ、最近では、現地における常設の研究機関アナトリア考古学研究所の建設を進めている
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[編集] 来歴
幼少時の称号は澄宮(すみのみや)。学習院初等科、中等科を経て、1932年(昭和7年)陸軍士官学校に入学。1935年(昭和10年)の成年式に伴い三笠宮の宮号を賜り、同時に大勲位に叙せられる。習志野の陸軍騎兵学校を経て、陸軍大学校を卒業する。
1941年(昭和16年)10月22日、高木正得子爵の二女百合子と結婚。甯子内親王(近衛忠煇夫人)、寬仁親王、宜仁親王、容子内親王(裏千家家元・坐忘斎千宗室夫人)、憲仁親王の三男二女をもうけた。
太平洋戦争開戦後、1943年1月から翌1944年1月まで、秘匿名「若杉大尉」参謀として南京の支那派遣軍総司令部に勤務。その後大本営参謀に転出。帰国後、戦争終結を模索し、同僚の津野田知重少佐らと東條内閣打倒のクーデター計画を立てるが、東條の暗殺、主戦派の大量粛清などの過激な内容に躊躇し、自ら憲兵隊に通報。津野田らは逮捕され、クーデター計画は未遂に終わった(津野田事件)。三笠宮の関与は不問に付され、1944年9月、機甲本部付に左遷、陸軍騎兵少佐で終戦を迎える。
戦後は東京大学文学部で歴史学を学んだ。1955年(昭和30年)東京女子大学で講師として教育に当たったほか、青山学院大学、天理大学、拓殖大学でも教壇に立ち、日本オリエント学会の会長も務めた。また、紀元節に関しては、科学的根拠に欠けるとして復活に批判的であった。1991年にはフランスの「碑文・文芸アカデミー」の外国人会員に就任、また1994年6月にはロンドン大学東洋・アフリカ研究学院の名誉会員に就任した。
戦後、民心の荒廃を憂い、国民にレクリエーションが必要との考えから、百合子妃とともに、ダンスの普及にも力を入れた。皇室会議議員の他公職としては、日本レクリエーション協会と中近東文化センターの総裁、日蘭協会と日本スリランカ協会の名誉総裁、日本オリエント学会名誉会長、日本赤十字社副総裁を務めている。
三笠宮家系図 大正天皇 三笠宮 ┠───崇仁親王 貞明皇后 ┠──┬甯子内親王(近衛忠煇夫人) 百合子│ ├寛仁親王 │ ┠──┬彬子女王 │ 信子 └瑶子女王 │ │桂宮 ├宜仁親王 │ ├容子内親王(千宗室夫人) │ │高円宮 └憲仁親王 ┠──┬承子女王 久子 ├典子女王 └絢子女王
[編集] 著述
- 日中戦争・第二次世界大戦中についての言及
「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴と罵られた世の中を、私は体験してきた」 (三笠宮崇仁『日本のあけぼの――建国と紀元をめぐって』光文社 1959年刊 「はじめに」より)
「一九四三年一月、私は支那派遣軍参謀に補せられ、南京の総司令部に赴任しました。そして一年間在勤しましたが、その間に私は日本軍の残虐行為を知らされました。……ある青年将校――私の陸士時代の同期生だったからショックも大きかったのです――から、兵隊の肝力を養成するには生きた捕虜を銃剣で突きささせるにかぎる、と聞きました。また、中国人捕虜を貨車やトラックに積んで満州の広野に連行し、毒ガスの生体実験をしている映画も見せられました。その実験に参加したある高級軍医はかつて満州事変を調査するために国際連盟から派遣されたリットン卿の一行に、コレラ菌を付けた果物を出したが成功しなかった。と語っていました。『聖戦』のかげに、じつはこんなことがあったのでした」 (三笠宮崇仁『古代オリエント史と私』学生社 1984年刊より)
- 戦後の民主化による環境変化についての言及
「それまでの不自然きわまる皇室制度――もし率直に言わしていただけるなら、『格子なき牢獄』――から解放されたのである。これまた運命の皮肉でなくてなんであろう!終戦後わたくしの生活態度は激変した。が、わたくしは楽しかった。三十になってたった一人で町をあるく楽しみをはじめて知ったわたくしは、運命のふしぎさをかみしめながら、だれにも気づかれずにコツコツと町をあるいてみたものである」(三笠宮崇仁「わが思い出の記」『帝王の墓と民衆』光文社 1956年刊より)
- 公私の別についての言及
「公私の別というか、公式と非公式の別というか、この両者の区別をはっきりさせてもらいたい。例えば、天皇の名代等でわれわれが地方へ旅行する場合と、たんに個人的研究のためとか、スポーツのためとか、あるいは保養のためとかで地方に行く場合とで、我々にたいする取扱い方を全然違えて、それぞれの目的を十分に達成させていただきたい。」 (三笠宮崇仁『古代オリエント史と私』学生社 1984年刊より)
[編集] 発言
-天皇というものについて
三笠宮 結局天皇というのは頭屋という、田舎で今も残っているかもしれないが、収穫祭の時の祭りを主宰する人、主役を演ずる役なんで、頭屋になると家にしるしののぼりを立てたり……、そういったものが官僚組織化し、官僚制になった。…だから精神は、そういったお祭りを主宰する役という、それがやっぱり今の大嘗祭とか、新嘗祭とかを大切にする根拠になった。それから軍隊とか将校なんていうのは、天皇のことをあまり神様って言わなかったんじゃないかと思うんですよ。ほんとに神様だったら、二・二六事件なんか起こりっこないんで……。天皇の性格――個人の性格じゃないですよ。天皇の性格でも、時代によって非常に変わっていると思うんです。……また今後、天皇はいかにあるべきかっていうことも、ただ万世一系続いてきたということからは答えは出ないんであって……内容が変わったから続いてきたんだと思うんですよ。もしも性格が変わらなかったら、すぐにつぶれたとも思うんですよね。結局時代に即応して天皇というものの性格が変化したから続いたのであって、非常に弾力性があるというか、……。もう一つは、中根千枝さん(注・東大教授、社会人類学)のいうタテ社会の問題ですね。あれとも、もう一つかかわり合ってくるわけだけれども、タテ社会にあって天皇の性格がいかに変化したかということを、もう少し具体的に研究することで、未来の天皇のあり方というものも出てくるんだろうと思うんで、いたずらに万世一系とか、昔も今も天皇は同じだっていうことは、全く誤てる天皇賛成論だと思うんですね。 (『ニッポン帝王学』潮出版社 1977年刊 著者・聞き手 牛島秀彦 於宮内庁書陵部三笠研究室)
-最近また南京大虐殺について、閣僚の発言が問題になりましたが、同じような問題が何回も繰り返し問題になるのはまことに困ったことだと思います。三笠宮殿下はこの問題についてどのように受け止められておられますか。
三笠宮 最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係ありません。私が戦地で強いショックを受けたのは、ある青年将校から「新兵教育には、生きている捕虜を目標にして銃剣術の練習をするのがいちばんよい。それで根性ができる」という話を聞いた時でした。それ以来、陸軍士官学校で受けた教育とは一体何だったのかという懐疑に駆られました。 また、南京の総司令部では、満州にいた日本の部隊の実写映画を見ました。それには、広い野原に中国人の捕虜が、たぶん杭にくくりつけられており、また、そこに毒ガスが放射されたり、毒ガス弾が発射されたりしていました。ほんとうに目を覆いたくなる場面でした。これこそ虐殺以外の何ものでもないでしょう。 しかし、日本軍が昔からこんなだったのではありません。北京駐屯の岡村寧次大将(陸士十六期・東京出身)などは、その前から軍紀、軍律の乱れを心配され、四悪(強姦、略奪、放火、殺人)厳禁ということを言われていました。私も北京に行って、直接聞いたことがあります。 日清、日露戦争の際には、小隊長まで「国際法」の冊子をポケットに入れていたと聞きました。戦後ロシア人の捕虜が日本内地に収容されていましたし、第一次大戦の時にはドイツ人の捕虜がたくさん来ていました。彼らは国際法に基づいて保護されていましたから、皆親日になったのです。彼らの中には、解放後も日本に残って商売を始めた人達さえいました。神戸には今でも流行っているパン屋さんやお菓子屋さんがありますね。 (三笠宮崇仁インタビュー「闇に葬られた皇室の軍部批判」『THIS IS 読売』1994年8月号 聞き手 中野邦観・読売新聞調査研究本部主任研究員)
[編集] 三笠宮批判
三笠宮崇仁親王は、「民主的な宮様」「赤い宮様」と呼ばれた時期があった。彼は戦後の民主化で皇室制度という「格子なき牢獄」から解放されたことを喜び、また、紀元節(建国記念の日)に対しては懐疑的であり積極的に反対の表明と行動を起こし、例えば(紀元節に)「最悪の場合にはアカンベをしていても、ちつともかまいません」(『文藝春秋』1951年12月号)と述べた。しかしこうした言動は、復古主義・国粋主義者などから猛烈執拗な反発を受けた。例えば日蓮宗僧侶出身の国粋主義者である里見岸雄は、『天皇及三笠宮問題』(錦正社、1960年刊)において「皇族が国民に接せられるとき、極めて御気軽でありさへすれば、民主的な宮様だ、などといふのは、浅薄極まる思想」であって「民主主義に迎合」しすぎであり、紀元節に反対する三笠宮は「赤い宮様」、つまり「共産党的だ」と批判した。そしてさらに「三笠宮は、紀元節問題に関して従来の態度を即時改め、今後一切意見の発表をやめて頂きたい」と要求した。 また1959年2月11日にはそういった批判勢力の一部が邸宅に乱入するという騒ぎ[1]も起きた。