ドナルド・ラムズフェルド
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ドナルド・ヘンリー・ラムズフェルド(Donald Henry Rumsfeld, 1932年7月9日 - )は、アメリカ合衆国の政治家。ジェラルド・R・フォード大統領の下で1975年から第13代国防長官を務めた。また、ジョージ・W・ブッシュ大統領の下で再度、2001年1月20日から2006年12月18日まで第21代国防長官を務めた。イラク戦争ではブッシュ政権内で終始強硬な攻撃論を主張した。
アメリカの軍産複合体を体現した人物とも評される。また、40年あまりの下院議員生活の経験に基づいた、議員としての心得、いわゆる「ラムズフェルドのルール」は、現在でもワシントンD.Cの関係者の間では広く知れ渡っている。また歯に衣を着せぬ直言スタイルで、数々の物議を醸す発言をして軋轢を生んだ。
1954年に妻ジョイスと結婚しており、夫妻には3人の子供および5人の孫がいる。
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[編集] 経歴
イリノイ州シカゴで生まれた。祖父はドイツ北部のブレーメンからの移民。奨学金を得てプリンストン大学に通い、卒業後1954年から海軍でパイロット、飛行教官を務めた。
退役後1957年からワシントンD.C.でアイゼンハワー政権下のオハイオ州選出下院議員の行政補佐官を務める。1960年から1962年まで投資銀行会社A.G.ベッカーで勤務した後1962年にイリノイ州より連邦下院議員(共和党)に30歳で当選し、1964年、1966年、1968年と、4期連続当選を果たす。
下院において、共和党の中では比較的リベラルな投票行動で知られ、若手リベラル派の有力な議員の一人であった。1964年の選挙での敗北に危機感を抱いたラムズフェルドら若手は、長老、チャールズ・ハレック下院院内総務に代わる院内総務としてジェラルド・フォード下院議員(後の大統領)を擁立し、成功した。
[編集] ニクソン政権
ラムズフェルドは議員四期目の1969年に下院議員を辞職し、ニクソン政権で機会均等局長(Director of the Office of Economic Opportunity)、大統領補佐官、経済安定プログラム長(Director of the Economic Stabilization Program)等を務めた。第46代副大統領リチャード・チェイニーは機会均等局での部下である。
1973年、ワシントンを離れベルギーのブリュッセルで北大西洋条約機構(NATO)米国大使に就任する。
[編集] フォード政権
1974年8月に彼はワシントンD.C.へ呼び戻され、フォード大統領の首席補佐官(1974年 - 1975年)を務めた後、1975年に史上最年少の43歳で第13代国防長官(1975年 - 1977年)に就任した。国防長官の任期内に彼は政権内における軍の発言力をCIAおよびヘンリー・キッシンジャーを犠牲にして高めた。これはソ連が国防費を増加させ秘密兵器開発計画を進行させているという見解の発表で行われた。そしてそれに対する反応は軍拡競争の再燃となって現れた。
[編集] レーガン政権
1977年に国防長官を辞任し、製薬企業や通信企業を経営しつつレーガン政権下で、軍備や戦略、日米関係、中東問題など各種の諮問機関で委員を務めている。
- 軍備管理に関する大統領諮問委員会委員(1982年 - 1986年)
- 海洋法条約特使(1982年 - 1983年)
- 戦略システムに関するパネル上級顧問(1983年 - 1984年)
- 日米関係に関する米国合同諮問委員会委員(1983年 - 1984年)
- 中東特使(1983年 - 1984年)
- 公務に関する全米委員会委員(1987年 - 1990年)
- 米国経済委員会委員(1988年 - 1989年)
- 米国国防大学理事(1988年 - 1992年)
- 日米関係委員会委員(1989年 - 1991年)
- 連邦通信委員会(FCC)高品位テレビ諮問委員会委員(1992年 - 1993年)
- 米国貿易赤字調査委員会委員(1999年 - 2000年)
- 国家安全保障宇宙管理組織評価委員会議長(2000年)
米国がイラクを支援していたころの1983年12月19日、イラクを訪問し、サッダーム・フセインと90分におよぶ会談を行なっている。
[編集] ブッシュ政権
現ブッシュ大統領の父親とは、共和党内における政敵同士だったため、ブッシュ政権においては一切の役職には就いていない。1988年の大統領選では、党内予備選への立候補を検討するが断念。結局、かつての盟友ボブ・ドール上院議員を支持した。
[編集] クリントン政権
1998年、米連邦議会の嘱託による超党派の「弾道ミサイル脅威評価委員会」(ラムズフェルド委員会とも呼ばれる)で委員長を務め、北朝鮮、中国を念頭に置いたとされる米国本土ミサイル防衛(NMD)の報告書を提出、戦略ミサイル防衛構想を推進した。
[編集] ジョージ・W・ブッシュ政権
2000年12月、米国大統領選挙戦の終盤にジョージ・W・ブッシュが国防長官への起用を発表。翌2001年、ブッシュ政権が誕生し、史上最年長の68歳で国防長官に就任した。
2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロにおいて、ハイジャックされたワシントンD.C.(ダレス国際空港)発ロサンゼルス行きアメリカン航空77便(ボーイング757)が9時38分に国防総省本庁舎(ペンタゴン)に激突した。執務中のラムズフェルドは危うく難を逃れ、建物の外へ出ると女性職員が血を流して倒れていた為、彼女を抱えて避難し、救急車が来るまで看病していた。これには英雄的な行為と賞賛する声がある一方、国家の危急時に職務を放棄していたという批判もあった。
その後アメリカのアフガニスタン侵攻やイラク戦争において国防長官として指導的役割を果たす。特にイラク戦争では開戦前に戦時における部隊運用規模をめぐり少数兵力による迅速な敵地制圧を唱え、エリック・シンセキなど反対する将校を解任するなど強行手段を取った。
しかしイラク侵攻時大義として掲げていた大量破壊兵器が発見されないことやアブグレイブ刑務所での囚人虐待事件でアメリカの道義的威信を大きく損ねたこと、一向に改善されない現地の治安状況などから退任を求める声が出ていた。特にイラク従軍兵士をはじめとする軍制服組からの突き上げが激しく、退役した元部下の将軍たちからは『独善的で現場からの忠告を度々無視した結果、今のイラクの現状がある』など厳しい指弾が相次ぎ、ついには陸海空軍と海兵隊の関係者向けの専門4紙が共同社説でラムズフェルド辞任を要求する事態に至った。
2006年11月8日の中間選挙において、イラク政策に対する有権者の不満などから共和党は大敗し、結果を受けたブッシュ大統領の記者会見の席でラムズフェルドの辞任が発表された。
[編集] 雑学
- 「立ったままの作業のほうが効率があがる」と起立した姿勢にあわせた執務机『スタンド・アップ・デスク』を考案し、愛用している。
- 全米海軍レスリングチャンピオンの経歴を持つ。
- イラク開戦に反対するフランスとドイツを『古いヨーロッパ』と非難した。
- 華氏911(マイケル・ムーア監督)でゴールデンラズベリー賞の最悪助演男優賞受賞(最悪主演男優賞はブッシュ大統領)。
- 2003年『やさしい英語普及運動』から、『関係代名詞や従属節を多用し、なおかつ接続詞の乱用による長いセンテンスを使用した、わかりにくい英語の演説、発言』をすることを顕彰して、『マウス・イン・フット(足の口)賞』を受賞。
- かつて、アポロ計画陰謀論を検証するフランスのジョーク番組『Opération Lune』で、湾岸戦争に関する発言をアポロ計画の発言に見せかけるように紹介されたことがある。
- インフルエンザ特効薬タミフルの特許を所有しているバイオテック企業ギリアド社の会長を1997年から2001年の間つとめ、また、ギリアド社の株式を多数保有している。トリインフルエンザ拡大によるタミフル争奪戦により、ギリアド社株式によって巨額の富を築いたとCNNは報じた。
[編集] 外部リンク
- Secretary of Defense Donald Rumsfeld(ホワイトハウスサイト内、英語)
- Official Web Site of the U.S. Department of Defense(英語)
- ラムズフェルド、ドナルド・H(日本語)
前任: ジェームズ・R・シュレージンガー |
アメリカ合衆国国防長官 1975 - 1977 |
後任: ハロルド・ブラウン |
前任: ウィリアム・S・コーエン |
アメリカ合衆国国防長官 2001 - 2006 |
後任: ロバート・ゲーツ |
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