マーティ・レオ・ブラウン
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マーティ・レオ・ブラウン(Marty Leo Brown、 1963年1月23日 - )は、アメリカ・オクラホマ州ロートン出身。プロ野球選手(内野手、外野手)。2006年から広島東洋カープ監督を務めている。背番号は71。
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[編集] 来歴・人物
ジョージア大から1985年にドラフト12位でレッズに入団。1990年にオリオールズに移籍、また、ツインズ傘下3Aのロチェスター、1991年にロッキーズ傘下3Aのコロラドスプリングスを経て、1992年に広島に入団。この頃のカープは守り勝つ野球から世代交代を迎えており、生きのいい若手野手が台頭しかけた打線の中でさほど突出した成績は残さなかったが、本塁ヘッドスライディングやフェンス越えダイビングキャッチなど数々の全力プレーで人気を博す。
中でも1年目の巨人戦で相手捕手を吹き飛ばす本塁クロスプレーを全国ネットで押さえたNTVでは、なぜか全日本プロレス中継のスタッフが「プロレスニュース」で『三沢のエルボー・スイシーダの使い手がプロ野球にもいた!』というネタに転用するほどド派手なシーンとなった。当時のファンにも記録より記憶に残る選手といっていいだろう。1994年に退団。
引退後、1997年からマイナーリーグで監督を務め、2003年から多田野数人が在籍するインディアンス傘下3Aバファローの監督に就任。2004年にはインターナショナルリーグで優勝、週刊誌「ベースボール・アメリカ」からマイナーリーグ最優秀監督賞を受賞した。2004年にはグレッグ・ラロッカ、2005年にはケニー・レイボーンをそれぞれ古巣の広島に送り込むなど結びつきも強かったことから、2006年から広島監督に就任し指揮を執る。目標は3年以内の優勝で、1年目は戦力分析、2年目はAクラス入り、3年目に優勝という計画である。そして、この優勝を決めた後に念願であるメジャーリーグの監督になるという人生設計であったが、広島に長く住むうちに永住も考えるようになったらしい。
アメリカでは小さな抗議でも退場になるとはいえ3A監督時代は、僅か3年の間に22回の退場を食らうという熱血漢である。日本でも監督就任1年目から既に3回退場させられ、現在4回。しかし暴力行為は一件も無い。成績こそ下位に甘んじているが、カープファンや球団関係者からの信頼は厚く、2007年の続投が決定した。長期政権を視野に入れている。
2006年オフに松田オーナーとともに梵英心の実家である専法寺に“家庭訪問”し、江戸時代初期から続く寺の本堂で梵の両親とこの日帰省した梵本人を交えた1時間の会話をし、人生初の「お焼香」を体験した。コメントとして、「日本の伝統的な文化に触れて、いい経験をした。これからは日本語も積極的に取り組みたい」と語った。
2007年のシーズン開幕(3月30日)よりシーズン終了まで、広島電鉄が運行する『カープ電車』の車内アナウンスを務めている。なお、ブラウンのアナウンスは広島市民球場に一番近い電停の原爆ドーム前を知らせる際に日本語と英語で流れる。
また、ファンサービスが素晴らしく、ファンがサインや写真撮影などを求めて来た時は笑顔で応じている。特に、写真撮影の際には相手の肩に手をやって肩を組むなどしている。
地域にも貢献したいとのことで、地域の活動にも精力的に参加している。例として、ノロウイルスの風評被害を受けていたカキを食べるイベントに参加し、安全をアピールしたことが挙げられる。ブラウン自身もカキが大好物であるという。
マイナーリーグでの監督時代より、日本ハムのトレイ・ヒルマン監督とは親友の間柄である。
[編集] 采配
[編集] 2006年度
31年振りにキャプテン制導入。黒田博樹を投手キャプテン、前田智徳を野手キャプテンに。先発を黒田博樹・大竹寛・ダグラスの3投手を軸に、大島崇行・佐々岡真司を加えた5投手で中4日でローテーションを組む。これによりエース級投手3人が計100試合以上登板できるようになる。守備でも逆シングルを推奨し、1,3塁線を大きく開ける守備シフトを取った。これにより従来まで一二塁間、三遊間を抜けた打球が凡打になるが、その代わり1,3塁線を破る打球が増えた。また、出塁率重視で1番に緒方孝市・2番に前田智徳というオーダーを組む。しかし、こちらは選手が打順を意識しすぎて上手く繋がらず9試合連続2得点以下という日本新記録を作るほど散々だった。そのためオーダーを元に戻したとたん打線は復活した。
基本的に捕手以外の野手(内野手、または外野手)を使い切ってしまう事がたびたびあった。
[編集] 内野手5人の奇策
4月22日の中日戦で5人内野シフトを取って話題を呼ぶ。一塁:栗原健太、二塁:東出輝裕、三塁:新井貴浩、遊撃:山崎浩司に中堅:福井敬治を入れ、福井が2塁ベース上を守った。しかし捕手倉義和のパスボール(投手:広池浩司)などで結局敗戦。このような采配の手腕を発揮している。
7月14日の横浜戦の10回裏にも5人内野シフト(一塁:栗原、二塁:東出、三塁:新井、遊撃:梵英心に中堅:井生崇光)を行ったが、こちらは永川勝浩の暴投を倉が取れずサヨナラ負け。2回とも内野手を増やした甲斐なくバッテリーミスで失点している。
[編集] ベース投げ事件・審判への抗議・1シーズン3度の退場
5月7日の中日戦では、3回表にマイク・ロマノが真鍋勝己審判に暴言を吐いたとして退場になった際、ブラウン監督は抗議をした。その後、ブラウンは一塁ベースを引っこ抜き、内野のフェアゾーンに放り投げ退場処分となった。退場する際、帽子を高らかに上げ、皮肉タップリの「日本風」のお辞儀をして退場した。ファンは拍手喝さいし、現役当時の応援歌が流れた。一見すると、ただ単に興奮しただけだと思われるが、実際は抗議に行く際にすでにジェフ・リブジーを代理監督に指名し、ロマノの次に投げる投手(広池浩司)も伝えていた。
直前のプレーの判定に対して抗議した投手の退場を受け、次の投手も指名しその後に抗議に行ったことからも、これは一種の「パフォーマンス」と捉えて差し支えないであろう。監督の退場に選手は奮起し、試合は5‐3で広島が勝利した。因みに、2006年ペナントレースで監督が退場したのは両リーグ通してこれが最初。このブラウンの退場劇に関して、三塁審判の谷博責任審判は、「抗議は冷静で紳士的なものだった。ロマノ投手をかばっていた。一塁ベースを投げていなければ、退場にはなっていなかった」と語っている。
5月16日の西武戦の試合前練習には、広島の選手、首脳陣、スタッフが総出で、"DANGER!(危険!)が正面、MY MANAGER THROWS BASES(うちの監督はベースを投げるぞ)"が背面にプリントされた、 ベース投げ事件をモチーフとしたTシャツを着用、リブジーコーチは正面が監督代行(漢字)、背面がHe did it again...(彼はまたやったよ・・・)のTシャツ、さらに本人は背面が"I THROW BASES(私はベースを投げるぞ)"になったものを着用した(本人もこのTシャツを気に入っているという)。また、このTシャツに描かれたマークが交流戦(日本ハム戦・札幌ドーム)の7回表の広島攻撃前に電光掲示板に映り、意表をついた演出に場内大歓声並びに大爆笑が俄に起こった。なお、このTシャツに関する問い合わせが殺到しているらしいが、イメージが悪いということで、公式な販売の予定はない。そのため地元テレビ局・ラジオ局、携帯サイトなどの視聴者プレゼントの目玉商品となっている。
7月16日(横浜戦)では、緒方孝市が本塁に突入した際、捕手が明らかに落球していたにも関わらず球審・吉本文弘はアウトと判定。これに対しこれまで生涯で一度も審判に抗議をしたことの無い緒方が激怒・猛抗議をした。この時にブラウンは一目散にベンチを飛び出し、抗議の輪に入るかと思いきや、抗議中の緒方と審判の間に入り緒方を制し、緒方は退場を免れる。その後、審判団が協議し、判定はセーフに。もし緒方が退場になっていた場合、控えの外野手を使い切っていた為、大ピンチに陥るところだった。
7月29日(横浜戦)では、6回裏1死1・3塁、打者倉義和の場面で打球がサードに転がった。倉は打球が足に当たった(自打球だからファールである)ので1塁に走らなかったが、審判の判断はフェアでダブルプレーの判定。その判定に対しブラウン監督が17分間の抗議。その後マウンド上に行き「私を退場にしてくれ!」とアピール。抗議が規定の5分を越えていたため退場に(シーズン2度目)。その後審判にお辞儀し一旦球場を去ろうとするが、急遽方向を変えて一塁ベースに近づく。再びのベース投げかと思わせ、観客は盛り上がるが、ベースの土を払うだけというフェイントで、ファンに挨拶したあとベンチに戻り球場を離れる。このパフォーマンスは球場のファンを笑わせた。またこの時期は微妙な判定が多かったので、前述への抗議も込めたTシャツを選手などが着用した。
8月23日(阪神戦)では5回表に友寄正人球審の度重なる微妙な判定に激怒し、矢野輝弘が四球を選んだ直後に内野陣をマウンドに集め、大竹寛らに激励をした後に審判に向けて猛抗議。その後ブラウン監督は戻りかけるが、何故か友寄球審が呼びとめて言い返す。その結果友寄球審は1分程度の抗議だったのにも拘らずブラウン監督を遅延行為(及び審判への暴言)によりシーズン3度目の退場にさせた(監督の1シーズン3回の退場は史上初)うえ、観客には一切の理由説明をしなかったので、当然ながら球場は一時騒然となった。
これまでにブラウン監督が抗議し、退場を宣告された試合は3戦全勝(ただし、その次の試合は3戦全敗)。また、いずれもホームグラウンドである広島市民球場で退場になっている。ブラウン監督の退場時に代理監督を務めるリブジーコーチは「彼が抗議するのは選手を守るためで、彼が退場になると選手が盛り上がるんだ」と語っている。 この3度の退場劇に共通して言えることは、監督が試合途中に退場するというのは褒められたものではないが、自分を犠牲にしてでも選手を守ろうとするブラウン監督の誠意に選手が応えた結果と言えよう。(実際2006年は審判の誤審が多く、これに抗議しての退場劇が多い。しかもそれで退場になった中日・落合博満監督と西武・伊東勤監督は両チーム共試合に勝利している)
余談だが11月23日に行われた広島のファン感謝デーでは彼の行為にちなんだ「ベース投げコンテスト」が行われ、ブラウンも参加した。なお、参加したと言っても始球式のようなものであり、本気では投げず、成績は6.2メートルであった。このコンテストで優勝したのは新井貴浩とファンの子供のペアで、2人の総飛距離は13.6メートルであった(「ベース投げコンテスト」は、選手とファンの2人の総飛距離を競うものであった)。
[編集] 日米の野球観の違いから生じた落合監督との問題
2006年8月13日の巨人戦終了直後の会見で「巨人の原監督、ヤクルトの古田監督は尊敬しているが、他球団ではサインなどでルール違反が行われている。見つかったら大変なことになる。いつまでもやられっぱなしでは終われない。特に次に対戦するチームの監督はよく聞いてほしい」と発言した。この次に対戦するチームとは中日のことであり、あたかも中日、そして阪神と横浜が中心となって不正を働いているかのような発言だったため、これを聞いた中日の落合博満監督は激怒した。8月14日の降雨のため試合中止決定後、落合が自ら記者を呼んで独演会を開くほどの怒りようで両球団を巻き込んだ騒動に発展した。翌15日に中日の西川球団社長、伊藤球団代表が急遽広島入りして広島の鈴木球団部長から事情を聞くとともに一連のブラウン発言での謝罪を受け、落合も「社長に任せる」とコメントしたため球団間での対立は一応回避された。
後日、ブラウンの一連の発言は日米の野球観の違いから生じたものであることが判明した。つまり、アメリカの野球(メジャーリーグなど)では、打席に立っている自軍の打者に対して、相手投手の球種を自軍から伝えてはいけないことになっている(いわゆる球種・サイン伝達)。日本では、パ・リーグでのみ禁止になっており、セ・リーグでは特に禁止事項にはなっていないため、ブラウンはこのことを警鐘したのである。
この騒動以降、ブラウンと落合は試合前のメンバー表交換の時ですら目を合わせないなどの問題が残っていた。しかし、10月16日に広島市民球場で行われた広島、中日、両チームにとってのシーズン最終戦での試合前のメンバー表交換の際には、ブラウンと落合の双方が握手を交わし、この騒動は一応の決着をつけた。
なお、中日と同じく批判の対象となった阪神、横浜両球団の監督及び関係者はこの件に対して静観する姿勢を示し、横浜の牛島監督(当時)へは直接会い謝罪するなど、こちらは大きなトラブルにはならなかった。
[編集] 2007年度
2006年度と同じく黒田が投手、前田が野手のキャプテンに。打線は1番を梵英心(遊撃手)・2番に東出輝裕(二塁手)を固定することを決めた。以下3番前田智徳、4番新井貴浩、5番嶋重宣、6番栗原健太。7番は緒方孝市、森笠繁、廣瀬純の外野手争いに加え内野から尾形佳紀も参戦するが、負傷の前田が開幕戦を出遅れる場合はもう1枠生ずる。8番の捕手は今年も倉が有力だが、新人で本来なら外野手登録の中東直己を抜擢したように攻撃力重視が予想され安閑としていられない。投手陣は中4日の先発ローテーションにこだわることをやめるとほのめかした。
[編集] 2007年度の退場
4月10日の対巨人戦で、梅津智弘のストライクに見える投球を2度ボールと判定した深谷篤球審に激昂(この前にも長谷川昌幸の一見問題なく見える投球をボークと判定され、軽く抗議した)。そして、ホームベースは無いも同然だと言わんばかりにホームベースに足で土をかけて見えなくし、その上に帽子を叩きつけた。結果は暴言で退場処分となる。これで通算4度目の退場。結果はカープが辛くも逃げ切り、これでブラウンの退場試合は去年と合わせ、4戦全勝となった(しかし、その次の試合では去年同様負けてしまった)。因みにこの年もセリーグ初の退場者になった(パリーグでは、球界史上最速記録をつくったテリー・コリンズ)。
[編集] 現在
- 身長・体重 183cm・95kg
- 血液型 A型
- 投打 右投げ右打ち
- 球歴 ジョージア大→シンシナティ・レッズ→ボルチモア・オリオールズ→ロチェスター→コロラド・スプリングス→広島東洋カープ
- プロ入り年度 1992年・(広島東洋カープ)
- 守備位置 内野手、外野手
[編集] 所属球団
[編集] 背番号
[編集] 経歴・タイトル
- 初出場 1992年4月5日・対読売ジャイアンツ(広島市民球場)
- 初安打 1992年4月5日・対読売ジャイアンツ(広島市民球場)
- 初本塁打 1992年4月8日・対横浜大洋ホエールズ(横浜スタジアム)
- 監督としての初退場 2006年5月7日・対中日ドラゴンズ(広島市民球場)=審判に対する侮辱行為(ベース投げ)
[編集] 通算打撃成績
年度 | チーム | 試合数 | 打率 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1992年 | 広 島 | 109 | .233 | 90 | 19 | 68 | 2 |
1993年 | 広 島 | 120 | .276 | 118 | 27 | 83 | 1 |
1994年 | 広 島 | 28 | .260 | 27 | 4 | 14 | 1 |
通算 | 257 | .256 | 235 | 50 | 165 | 4 |
[編集] 監督としてのチーム成績
年度 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | 本塁打 | 打率 | 防御率 | 年齢 | 球団 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2006年 | 5位 | 146 | 62 | 79 | 5 | .440 | 25 | 127 | .266 | 3.96 | 43歳 | 広島 |
[編集] 関連項目
|
- ※カッコ内は監督在任期間。
00 山崎浩司 | 0 井生崇光 | 1 前田智徳 | 2 東出輝裕 | 4 尾形佳紀 | 5 栗原健太 | 6 梵英心 | 9 緒方孝市 | 10 比嘉寿光 | 11 小山田保裕 | 12 白濱裕太 | 13 佐竹健太 | 14 梅原伸亮 | 15 黒田博樹 | 16 宮崎充登 | 17 大竹寛 | 18 佐々岡真司 | 19 上野弘文 | 20 永川勝浩 | 21 ショーン・ダグラス | 22 高橋建 | 23 横山竜士 | 24 河内貴哉 | 25 新井貴浩 | 26 廣瀬純 | 27 木村一喜 | 28 広池浩司 | 29 佐藤剛士 | 30 森跳二 | 31 石原慶幸 | 33 鞘師智也 | 34 前田健太 | 35 中東直己 | 36 青木勇人 | 37 岡上和典 | 38 田中敬人 | 39 梅津智弘 | 40 倉義和 | 41 森笠繁 | 42 長谷川昌幸 | 44 山田真介 | 45 松本高明 | 46 大島崇行 | 47 青木高広 | 48 ジャレッド・フェルナンデス | 50 鈴木将光 | 51 末永真史 | 52 大須賀允 | 53 林昌樹 | 54 吉田圭 | 55 嶋重宣 | 56 中谷翼 | 57 甲斐雅人 | 58 小島心二郎 | 59 山本芳彦 | 60 齊藤悠葵 | 61 山本翔 | 62 今井啓介 | 63 仁部智 | 64 会沢翼 | 65 相澤寿聡 | 66 上村和裕 | 67 丸木唯 | 68 金城宰之左 | 69 天谷宗一郎 | 93 ビクトル・マルテ | 121(育成選手) 飯田宏行 | 122(育成選手) 山中達也 | 123(育成選手) エスマイリン・カリダ |
71 監督 マーティ・レオ・ブラウン | 75 ジェフ・リブジー | 88 小早川毅彦 | 73 小林幹英 | 87 澤崎俊和 | 77 高信二 | 85 永田利則 | 78 熊沢秀浩 | 76 二軍監督 山崎立翔 | 82 浅井樹 | 80 山内泰幸 | 86 阿部慶二 | 74 岡義朗 | 81 道原裕幸 | 83 朝山東洋 | 89 水本勝巳 |
カテゴリ: アメリカ合衆国の野球選手 | 広島東洋カープ及び広島カープの選手 | 野球監督 | 1963年生