緒方孝市
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緒方 孝市(おがた こういち、1968年12月25日 - )は、佐賀県鳥栖市出身の広島東洋カープに所属するプロ野球選手である。
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[編集] 略歴
[編集] カープ入団
佐賀県立鳥栖高等学校では3年春の九州大会はベスト8、夏は県大会でベスト4の成績だった。そして1986年ドラフト3位で広島東洋カープに内野手(二塁手)として入団したが、後に外野手へと転向し、走攻守揃った外野手としてチームを牽引している。 入団2年目の1988年に一軍出場を果たし、5年目の1991年には100試合以上に出場。同年の日本シリーズでもスタメンとして出場するなど、早くから期待を集めるが、毎年のように怪我に泣かされていた。しかし1995年の母の死が転機となり、野球への取り組み方に甘えがなくなり、1995年にアキレス腱を断裂した前田智徳の穴を埋める形でレギュラーに定着。このことを評して当時の三村敏之監督は「緒方の母は緒方を二度生んだ」と発言、話題となった。規定打席不足ながら、リーグ8年ぶりとなる40盗塁以上を記録。結局、47盗塁で盗塁王を獲得した。
その後、1997年まで当時リーグタイ記録となる3年連続盗塁王を獲得。1996年にはリーグ11年ぶりとなる50盗塁を記録した。この3年間で計146盗塁を記録したが、その間、失敗は僅か26だった(成功率.849)。
[編集] 打撃開眼
課題は粗さの残る打撃だったが、1998年に突如ブレイク。右方向へのバッティングをマスターし、開幕から高打率を記録。6番という打順の関係上、例年ほどではなかったものの、盗塁数も順調に伸び、当時のリーグ新記録となる4年連続盗塁王に加え、首位打者、打点王も視野に入るほどの好調で、本塁打も量産し、トリプルスリーへの期待も高まった。が、6月12日に甲子園で行われた阪神戦の9回裏に、八木裕が放った大飛球を追ってフェンスに跳び蹴りをした際に、右足首を捻挫して戦線離脱。1ヶ月半後に復帰し、復帰後も高打率はキープしたものの、本塁打、打点、盗塁に関しては全くと言っていいほど数字が伸びなかった。この怪我を境に、緒方の野球人生はその趣を変えた。
1999年、前年に開眼した打撃は本物で、開幕から本塁打を量産。結局36本塁打を放ち、打率も3割を越えて自身初の3割30本塁打を記録。また、初回先頭打者本塁打をこの年だけで8本放ったが、これは日本タイ記録である。しかし、前年の捻挫の影響からか、盗塁数は一向に伸びなかった。3割30本達成が確定的になると、30盗塁を目指して積極的に企図を試みるも、失敗が目立った。結局30回盗塁を試みて、成功は僅か18。この年の盗塁成功率は.600で、1997年までの通算成功率が.833と、200盗塁以上を記録した選手の中では史上最高の数字を誇っていた緒方にとって、この数字は屈辱以外の何物でもなかった。
3割30本に加え、5年連続のゴールデングラブ賞を獲得したこの年を振り返り、緒方は「自分らしさがなく最悪のシーズンだった。打撃が良かったのがせめてもの救い」と語っている。彼の走塁への意識の高さがうかがえる発言である。この年のオフ、FA権を獲得し、巨人やダイエーを筆頭に、多くの球団が「宣言すれば獲得に乗り出す」意思を表明し、長嶋茂雄監督も「一番欲しい選手」と熱烈なラブコールを送り、巨人入りが既定路線のように報道されたことさえあった。しかし、広島出身の妻緒方かな子の希望もあり、広島に残留した。残留に際し、「広島という土地柄にもファンにも愛着があるし、熱いものを感じる」と語った。
選手会長にもなり、すっかりチームの顔となった2000年、そして2001年は幾度となく大きな故障に苦しみ、試合に出ることすらままならない日々が続いた。その故障の多くが下半身だったこともあり、この2年間を境に、緒方の盗塁の数は更に激減してしまう。限界論も囁かれかねなかったそんな中、2002年、緒方は不死鳥のように復活を果たす。衰えが懸念された打撃は、勝負強さと円熟味を更に増し、開幕から安定して打ち続け、自身3度目の3割をマーク。本塁打も25本を数えた。カムバック賞こそ、同じく復活を果たした同僚の前田に譲ったものの、成績的には緒方のほうが優れていたと言ってもいいほどだった。
2003年は開幕から極度の不振に落ち込むも、4月の終わりに放ったサヨナラ本塁打を機に急上昇し、2年連続の3割、そして自身最多の82打点を記録した。この年、最終戦を迎えた時点での成績は.297、29本で、3割には最低でも4打数3安打以上の成績が必要とされていた。1打席目を凡退し、3割達成は絶望的かと思われたが、そこから3打席連続ヒットを放ち、見事3割を達成した。また、3本目のヒットは神宮球場のフェンス最上部に直撃する二塁打で、あと30cm飛距離が伸びていたら、30本塁打も同時に達成しているところだった。
その後も安定した成績を残している。98年以来、6回規定打席に到達して、うち5回が3割を記録と、すっかりリーグを代表する右打者となった。近年は以前よりパンチ力が薄れた感はあるが、解説者が口を揃えて絶賛する、まるで外国人のような内角球の捌き方は未だ衰えを見せず、外角の難しい球から最後まで眼を切らずに上手くバットを合わせて振り切り、ライト前に落とす流し打ちの技術は年々上達しているようにさえ思える。
三振は多いが選球眼はよく、例年出塁率は高い。30代も後半を迎えてなお、チーム内で最も1番を打つ機会が多いのは、単にチーム事情によるものだけではなく、このことも関係しているように思われる。また、盗塁数こそ全盛期と比べるべくもない数字まで落ち込んでしまったが、脚の速さ自体は未だ水準以上を保ち、走塁技術やセンターの守備は未だチーム内でも屈指の上手さを誇っている。また常に全力疾走を欠かさない姿勢はファンに限らず、多くの人の共感を呼び、2003年には「スピードアップ賞」も受賞した。その若さ溢れるプレースタイルと童顔から、実年齢よりもかなり若く思われる時も多い。
怪我に弱い印象を持たれがちで、確かに全力プレーから来る故障は多いが、その回復力は驚異のものがある。 2004年オフにヘルニア手術をし、2005年の開幕戦出場が危ぶまれたが、オープン戦で復帰。開幕直前の試合でセンターへの大飛球をフェンスに激突しながら好捕した際に肩を打撲し、開幕戦出場は絶望視されたが、結局スタメン出場を果たし、9回表に巨人のミセリから決勝の2ランホームランを放った。 また、同年5月に東北楽天ゴールデンイーグルスの戸叶尚から顔面に死球を受け、左眼窩を骨折したが、翌日から通常通りチームの練習に参加、その次の試合では代打で復帰するなど、衣笠祥雄ばりの鉄人ぶりも見せている。ちなみにこのシーズンを振り返って緒方は、「大きな怪我もなくやれた」と振り返っている。
2006年も4月だけで2本の初回先頭打者ホームランを放つ。しかし、5月4日の対ヤクルト戦で五十嵐亮太にデッドボールを受け負傷退場。検査の結果右手薬指開放骨折で全治4週間の診断を受け、登録抹消された。
7月16日の横浜戦でプロ人生初の抗議(緒方はこの時まで審判に抗議したことはない。本人曰く「(判定の有利不利は)お互い様であるため、抗議はしない」)。9回表、3塁ランナーの緒方が倉義和の3塁ゴロに本塁突入。タイミングはアウトだったが捕手・相川亮二が落球したので本来ならセーフ。しかし主審の吉本が見落としておりアウトの判定を受ける。その判定に緒方が激怒し猛抗議。あわや退場と言うところだったがブラウン監督が緒方を制して退場は免れる。その後1塁塁審・本田らに確認し、判定はセーフとなる。
[編集] 数々の記録
前述した年間先頭打者本塁打の日本タイ記録に加え、通算28本の初回先頭打者ホームランも歴代5位の記録であり現役では断トツで最多である(表の先頭打者ホームランは真弓明信の記録を抜く22本でセリーグ1位)。その他、1988年にプロ初出場で初安打が初ホームラン(対阪神)、1997年9月11日には9回裏2死満塁の状況で3点差をひっくり返すお釣り無しの逆転サヨナラ満塁本塁打を放つなど(対阪神)、ホームランの記録には縁がある。
2006年現在、3割5回、30本塁打以上1回、20本塁打以上6回、盗塁王3回、ゴールデングラブ賞5回、走攻守揃った好選手であることは、記録も顕著に示している。通算250本塁打まであと12本と迫っているが、これがもし達成されれば、同時に過去4人しか達成していない、通算250本塁打250盗塁の記録も達成となる。
[編集] 盗塁技術
特にスタートの素晴らしさと、スピードが全く落ちないスライディングは相手チーム、特に捕手にとって脅威。古田敦也(ヤクルト)をして「投げた瞬間に『刺せる!』と思って、唯一刺せなかった選手」と言わしめ、また走攻守のスケールの大きさから「自分が監督になったら一番欲しい選手」とまで言わせたことがある。
1998年に放送されたスポーツマンNo.1決定戦では、その身体能力の高さを遺憾なく発揮し、見事、総合No.1に輝いた。なお、同番組の「ショットガン・タッチ」では当時の世界記録である「13m20cm」を樹立した(翌1999年に当時ヤクルトの飯田哲也が「13m30cm」を記録)。ちなみにモンスターボックス(跳び箱)でも活躍し、当時のプロスポーツマンタイ記録である18段を成功させ、この種目でもNo.1となっている。
[編集] 略歴
- 身長・体重:181cm 80kg
- 投打:右投右打
- 出身地:佐賀県鳥栖市
- 血液型:A型
- 球歴・入団経緯:鳥栖高 - 広島(1987年 - )
- FA取得:1999年(1回目・現在も有資格者)
- プロ入り年度・ドラフト順位:1986年(3位)
- 英語表記:OGATA
- 推定年俸:1億円(2007年)
- 背番号:37(1987年 - 1995年) - 9(1996年 -)
- 守備位置:外野、(一塁)
長らく中堅手を守っていたが、2007年オープン戦より、左翼手も守るようになった。
[編集] 経歴・タイトル
- 1990年:右膝骨折し全治2ヶ月。
- 1995年:9月月間MVP受賞。セ・リーグ歴代3位の月間21盗塁。
- 1999年:6月23日、100号本塁打達成。
- 2000年:右膝右足首手術。
- 2001年:3月31日、1000試合出場達成。
- 2002年:8月30日、150号本塁打達成。3年ぶりの規定打席到達。3割にも到達。
- 2003年:7月19日、250盗塁達成。2年連続の3割。自己最高の82打点。
- 2004年:6月30日、200号本塁打達成。
[編集] 年度別成績
年度 | チーム | 背番号 | 試合数 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 打率 |
1988年 | 広島 | 37 | 1 | 5 | 1 | 1 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | .200 |
1989年 | 広島 | 37 | 2 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | .000 |
1990年 | 広島 | 37 | 32 | 14 | 9 | 5 | 0 | 1 | 2 | 4 | 2 | .357 |
1991年 | 広島 | 37 | 102 | 200 | 26 | 37 | 3 | 0 | 5 | 11 | 12 | .185 |
1992年 | 広島 | 37 | 86 | 115 | 25 | 26 | 3 | 0 | 3 | 10 | 18 | .226 |
1993年 | 広島 | 37 | 93 | 150 | 25 | 36 | 7 | 3 | 4 | 21 | 14 | .240 |
1994年 | 広島 | 37 | 57 | 126 | 16 | 35 | 2 | 2 | 5 | 14 | 12 | .278 |
1995年 | 広島 | 37 | 101 | 272 | 56 | 86 | 11 | 2 | 10 | 43 | 47 | .316 |
1996年 | 広島 | 9 | 129 | 516 | 95 | 144 | 25 | 6 | 23 | 71 | 50 | .279 |
1997年 | 広島 | 9 | 135 | 528 | 103 | 143 | 26 | 5 | 17 | 57 | 49 | .271 |
1998年 | 広島 | 9 | 107 | 380 | 67 | 124 | 24 | 3 | 15 | 59 | 17 | .326 |
1999年 | 広島 | 9 | 132 | 495 | 111 | 151 | 23 | 3 | 36 | 69 | 18 | .305 |
2000年 | 広島 | 9 | 21 | 66 | 11 | 12 | 3 | 0 | 3 | 10 | 1 | .182 |
2001年 | 広島 | 9 | 64 | 159 | 17 | 39 | 7 | 0 | 8 | 29 | 1 | .245 |
2002年 | 広島 | 9 | 130 | 476 | 77 | 143 | 24 | 0 | 25 | 73 | 4 | .300 |
2003年 | 広島 | 9 | 136 | 530 | 75 | 159 | 35 | 0 | 29 | 82 | 8 | .300 |
2004年 | 広島 | 9 | 122 | 456 | 91 | 133 | 20 | 2 | 26 | 64 | 4 | .292 |
2005年 | 広島 | 9 | 122 | 431 | 60 | 132 | 22 | 2 | 21 | 57 | 3 | .306 |
2006年 | 広島 | 9 | 80 | 214 | 28 | 60 | 13 | 0 | 6 | 29 | 2 | .280 |
年度 | チーム | 背番号 | 試合数 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 打率 |
通算 | 1652 | 5133 | 894 | 1466 | 248 | 29 | 239 | 704 | 263 | .286 |
[編集] 関連項目
- 佐賀県出身の有名人一覧
- 広島東洋カープの選手一覧
- 阿南準郎
- 山本浩二
- 三村敏之
- 達川光男
- マーティ・レオ・ブラウン
- 緒方かな子
- 野村謙二郎
- 佐々岡真司
- 金本知憲
- 前田智徳
- 新井貴浩
- 黒田博樹
- 嶋重宣
- スポーツマンNo.1決定戦
[編集] 外部リンク
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71 監督 マーティ・レオ・ブラウン | 75 ジェフ・リブジー | 88 小早川毅彦 | 73 小林幹英 | 87 澤崎俊和 | 77 高信二 | 85 永田利則 | 78 熊沢秀浩 | 76 二軍監督 山崎立翔 | 82 浅井樹 | 80 山内泰幸 | 86 阿部慶二 | 74 岡義朗 | 81 道原裕幸 | 83 朝山東洋 | 89 水本勝巳 |
カテゴリ: 日本の野球選手 | 広島東洋カープ及び広島カープの選手 | 1968年生 | 佐賀県出身の人物