三遊亭楽太郎
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三遊亭 楽太郎(さんゆうてい らくたろう、本名:會 泰道(あい やすみち)、1950年2月8日 - )は、東京都墨田区出身。円楽一門会所属の落語家。出囃子は師匠圓楽と同じ「元禄花見踊り」(以前は「花が咲き候」を使用)。墨田区立両国中学校、東京都立深川高等学校、青山学院大学法学部卒業。血液型A型。
博士号を取得しているため、笑点メンバーは元より、お笑い界でもインテリとして通っている。弟子に稽古を付ける際も理詰めで行うほどである。
『笑点の謎』(河出書房新社)でも明かされているが、「博士号」に関しては、在学中から(アルバイトの形で)円楽についてそのまま落語家となったため、大学院に入学しておらず、自分の論文(「心から笑える健康づくりのために」)を知人に英訳して貰い、アメリカ・ルイジアナ州のアメリカンM&N大学に送って「理学博士」の認定書を得た。この為、事実上在学はしておらず、最終学歴は青山学院大学となる。メンバーいわく、「取ったはいいものの何の役にも立っていない」模様で、楽太郎なりのファッションの一つなのだろうと書かれている。学業系以外にも、ゴルフやゲートボールなどのスポーツの会員証や資格、「アメリカ海軍後援会会員(大笑点でも出たが、本人曰く、軍の関連施設への立ち入り許可、酒税免除などの特典がある)」など、認定証(資格)を集める事が趣味と思わせる面もある。
趣味はゲートボール。審判員の資格を持ち、テレビ朝日系のゲートボール番組で審判を務めていたこともある。また、生前のジャイアント馬場と親交があり、落語界きってのプロレスファンとしても知られる。プロレスラーの天龍源一郎とは墨田区立両国中学校の同級生。ちなみに角界の田上明へプロレス転向を勧めたのも楽太郎である。
2006年4月、代々木アニメーション学院学院長に就任した。
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[編集] 笑点でのキャラクター
1977年8月から「笑点」の大喜利に出演している。この年の3月には師匠圓楽が、8月には圓楽の弟弟子三遊亭圓窓が卒業したので、その後任として三笑亭夢之助とともに笑点に出演した。 笑点で着用している高座着(着物)の紫色は、師匠圓楽が回答者の時に着用していた色と同じである。 当時から愛称は「楽ちゃん(楽さん)」。余談だが、現在兄弟子の好楽が「楽ちゃん(楽さん)」とあまり呼ばない理由として、好楽が林家九蔵を名乗っていた頃の前座時代、当時は圓楽一門総領弟子、鳳楽が「楽松」と名乗っており、圓楽一門の初代“楽ちゃん(楽さん)”であり、当時から九蔵と非常に仲が良く、その愛称で鳳楽を呼んでいたその余韻があるものと考えられる(尚、鳳楽が楽松から改名したのは真打になってから。楽太郎が入門してからは“楽さん”が多くなり、楽太郎の愛称は落語界では基本的に鳳楽の踏襲である)。また、圓楽一門の直弟子のほぼ全員が名前の頭か最後に“楽”が付く為、紛らわしい名前は基本的に略さずに呼ぶ事が多い。
夢之助は1979年9月に笑点を卒業している、その時の後任は後に圓楽一門に移籍してくる林家九蔵(現三遊亭好楽)であった。好楽は1983年10月に一度卒業しているが、1988年4月に復帰していて現在も出演している。また香盤はその一門に入った順番では無く、落語の世界に入った順である為、好楽の方が上である。
他のメンバーからは、腹黒と呼ばれ、師匠圓楽を「若竹で借金をこさえた人」「馬面」と言い、時には馬扱いするなど小バカにするが、鞄持ちのアルバイトからのスカウトではあったものの好きで入門した師匠である為決して本心ではない。
かつては顔が瀬古利彦に似てたので、彼の物真似もやっていた。瀬古が引退してからはやっていなかったが、「笑点」2005年7月31日放送分で林家たい平に17年ぶりに「これを給水地点まで持って行くといいって隣の瀬古選手が言ってたんですよ」と言われた。
大喜利の挨拶では、毎回、世評などの小難しい薀蓄をたれ、インテリであることをアピールしていた。それに対して、林家こん平が「私にはそういう難しいことがよくわからないんですが…」と挨拶でのべるのは長年の定番であり、回答でも長々としゃべって座布団を没収されたり、途中で司会の圓楽が次の回答者を指名したりすることが多かった。歌丸が司会になってからは多少パターンを変え、歌丸に自殺行為を促すようなネタ(棺桶に入れ、飛び降りろなど)や他愛もないことをくどくどしゃべるパターンが増えている。(と言ってもインテリネタがなくなったわけではない。)
2006年3月、TBSテレビ系の「ズバリ言うわよ!」にゲスト出演した際、細木数子に人物鑑定されたが、大喜利で彼女を否定するネタを披露する事から、彼女を良く思っていない可能性がある。
春風亭昇太が加入してからは、両隣の昇太やたい平を率いて「フレッシュヤングチーム」を結成した。その後、腹黒にあやかり「ブラック団」と命名している。しかし、勝手に同チームのメンバーにさせられた昇太とたい平は、あまり乗り気ではないらしい。ブラック団には裏表が存在し、表の団員には楽太郎、昇太、たい平で、裏の団員は笑点チーフプロデューサーの梅原幹、プロデューサーの鈴木雅人、飯田達哉、加藤晋也、メイクの外山奈津子ほかが居り、規模を拡大している(2007年1月21日放送にて)。
なお、代々木アニメーション学院学院長に就任した直後は、歌丸が楽太郎に対し「学院長」と言ったりする場面がよく見られたが、2006年5月に学院が学費返還で公正取引委員会から排除命令を受けてからは、番組内で学院長について触れられることはあまりなくなった。
[編集] 歌丸VS楽太郎の罵倒合戦
- 葬式関係(出棺・火葬・棺桶・死亡・葬式)・禿げ(鶴・毛がない)・爺(やるかジジイ!・そうだジジイ)等歌丸に対する侮辱ネタは恒例になっている。歌丸が司会に就いてからは楽太郎の“歌丸死亡ネタ”は、「山田くん! 楽さんの座布団全部持っていって」と5枚~6枚没収される事が定番化しつつある。(過去最高は6枚)
- 因みに歌丸が司会になってから現在まで、楽太郎の座布団の持ち数が7枚を超えた事はない。また歌丸司会に就いてからは座布団剥奪数はトップである。
- 漢字遊びでは「車に歌丸と書いて霊柩車」「冬に死ぬと書いて歌丸」等侮辱のバリエーションは幅広い。過去の放送で「骨が無い・毛が無い・命が無い好きなの選んで」と回答
- 楽太郎以外のメンバーが歌丸死亡ネタを披露した場合、自分の座布団を渡す事がある。2006年12月24日放送の3問目、歌丸が扮するサンタクロースの妻の「仕事行ったら?」の問いに返答する問題で、昇太が「あんた(歌丸)はあの世に行きなさいよ」の回答に爆笑した楽太郎が座布団を渡して昇太の座布団を12枚にさせたが、歌丸の逆鱗に触れて全部没収の結末になった。
- 良い答えを出して1枚獲得してもボソッと言った一言によって結局没収される事もある(そうだジジイ・禿げネタ)
- 毎年楽太郎が講師をしている介護学校の学生たちが収録に参加する場合は、「学生の皆さんに連絡事項です。番組収録後歌丸を使って介護実習をしますので楽屋に集まるように」と挨拶を言うのが定例になっている。
- 一見犬猿の仲のように見えるが、それは『笑点』だけの話であり、普段は楽太郎が歌丸宅を訪れて落語の議論をするなど仲が良い(勿論、富士子夫人にも丁寧である)。落語の上では歌丸としても楽太郎としても二人会で共演する回数が最も多い相手であり、時には落語の間に対談(MC)も交える。2007年5月には、メキシコで二人会を開催する事も予定されている。因みにこのネタを言い出したのは、楽太郎が笑点のレギュラーになった当時、楽太郎は答えるのに困っていたようで、歌丸が「俺の事でもいいから」と言ったことがきっかけである。
[編集] 芸歴
- 1970年4月、青山学院大学在学(因みに落語研究部に所属、発表会で兄弟子鳳楽(当時・楽松)に会っており、入門前から面識があった)中に三遊亭圓楽の鞄持ちのアルバイトに志願、暫くの付き添いを経てスカウトされ、入門。
- 1976年、二ツ目昇進。
- 1977年8月28日、師匠の弟弟子三遊亭圓窓の後任として笑点レギュラーとなる。
- 師匠の卒業で欠員が出ていたため師匠が着ていた紫色の高座着を着用する事となった。
- ちなみに桃色の高座着を着用したのは同じく新メンバーとして加わっていた三笑亭夢之助(2年後降板)である。
[編集] 映画やドラマ等
- ひらり(1992年10月5日~1993年4月3日、NHK連続テレビ小説)
- 暴れん坊将軍
- VI・VII(め組小頭 卯之吉)(1994年10月16日~1997年1月25日、テレビ朝日系列)
- IX 宇太郎
- VIIでは桂歌丸が卯之吉(楽太郎)の父治助役で出演した。また、一度だけ歌丸と楽太郎の罵倒合戦がある。
[編集] CM
- 祐徳薬品工業(パスタイム 『きもちんよか~』のCMで薬局の薬剤師の役で出演)
- 太洋技建(ポリマーライト)
- 野村證券(株券電子化篇、桂歌丸・林家木久蔵と共演、8月からは三遊亭好楽が加わった)
- 日本香堂 (毎日ローソク ※低煙線香「青雲」のCMで師匠圓楽と共演(※ 但し、圓楽は声のみ)していた事がある)
- 代々木アニメーション学院
ちなみに山形県では「サンコー(山形)」のCMにも出演している。
[編集] 受賞歴
- 1979年1月、放送演芸大賞最優秀ホープ賞受賞
- 1981年1月、若手落語家努力賞受賞
[編集] その他
- 1980年 - 、税務大学校講師
- 1991年9月、アメリカンM&N大学より理学博士号授与
- 1992年11月、国税庁長官より表彰を受ける
- 1994年4月 - 、栃木・中央福祉医療専門学校客員教授
- 1996年9月 - 、ハワイ・オアフパークゴルフ協会名誉顧問
:ゴルフに関してはサントリーオープンゴルフのアマプロチャリティートーナメントに参加する事もある。
[編集] 一門弟子
また、伊集院光は過去に「三遊亭楽大」という名で楽太郎の弟子だった(自主廃業をしたが、2003年の一門会には参加。楽太郎は今も身内として扱っている)。「伊集院光」はラジオでの芸能活動を楽太郎に知られないようにするため考えられた芸名。 1995年には伊集院のラジオ番組にゲスト出演し、思い出話に花を咲かせた後、伊集院を叱咤激励し「師弟共演」が実現した。