全日本学生自治会総連合
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全日本学生自治会総連合(ぜんにほんがくせいじちかいそうれんごう、英 All-Japan Federation of Students' Self-Governing Associations)とは、日本の学生自治会の連合組織のことである。略して全学連(ぜんがくれん)ということが多い。
なお、全学連と表記した場合は、日本以外の国家にある学生自治会の連合組織を指している場合もある。
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[編集] 歴史
[編集] 創立から初期の活動
全日本学生自治会総連合は、1948年(昭和23年)9月に日本全国の国立、公立、私立の145大学によって結成された。初代委員長は後に新日本文学会の指導的な立場にたち、安保闘争のときに日本共産党を批判する呼びかけを行って党を除名された武井昭夫である。ついで委員長になったのは、のちに学習院大学の教員となり中曽根康弘のブレーンとなった香山健一であった。
初期の全日本学生自治会総連合は、日本共産党の強い影響の下で、反レッドパージ闘争、朝鮮戦争反対闘争、全面講和運動などを行った。この時期に全学連で活動した者には、後述する東大の山川暁夫、元西武セゾングループ総帥で作家の堤清二、後の日本共産党議長不破哲三と副委員長上田耕一郎兄弟、元桃山学院大学学長沖浦和光、東大教授の神代や戸塚秀夫、歴史学者の犬丸義一、早大から新聞記者を経て田中角栄秘書となる早坂茂三などがいた。彼らは学生時代は全員同じ共産党員であり、早坂を除けば共産党の東大細胞(支部)に所属していた。70年代まで、山川と早坂、堤との交流は長らく続いていたという。このことは全学連運動の当時の人間関係の密度の濃さを表している。
[編集] 日本共産党への批判と独自の活動
山村工作隊・中核自衛隊などによる火炎瓶闘争など過激な手段を用いてきた日本共産党所感派は、1955年(昭和30年)に第6回全国協議会で武装方針を放棄し、国際派との統一を実現した。全学連ではこの方向に批判的なグループが、元国際派学生を中心としたブント結成に流れていく。現在、政治評論家として小泉改革に抗議する森田実は当時、全学連平和部長として砂川闘争を闘ったのであった。森田のその弁舌と指導力によって全学連内部でも森田派とでも言いうる一群の学生活動家を結集していた。その後全日本学生自治会総連合の指導部と、学生にも日常の要求に密着した日常闘争を求めるようになった日本共産党の指導部との間に溝ができ、全日本学生自治会総連合の主流派は独自の活動を行うようになっていった。
1956年(昭和31年)のスターリン批判やハンガリー動乱の影響で、全学連の主流派は、反日本共産党の立場を鮮明にし始めた。1958年(昭和33年)には、代々木の日本共産党本部での紺野与次郎幹部会委員への殴打事件を契機として日本共産党を除名されたものを中心に、学生組織・反戦学生同盟を基盤として共産主義者同盟(ブント)が結成され、学生運動を指導することとなった。全学連はこのブント指導の主流派と共産党指導の反主流派(全自連にのちになっていく)とに分裂したままで60年安保を迎えることになる。
結成されたブント書記長は長らく沖縄の地で精神科医として地道に活動を続けた島成郎であった。また、当時、姫岡玲二のペンネームで理論活動していた青木昌彦は、闘争終了後にフルブライト奨学金を得てアメリカに留学し、その後、現在では政府の審議委員としても活躍している。60年安保で資金をめぐって戦前の一時期の共産党指導者で、戦後は右翼のフィクサーとなった田中清玄の知遇を得て活躍した明大生篠原浩一郎は、田岡一雄率いる三代目山口組企業舎弟の甲陽運輸を経て、伊藤忠商事にかかわり、その後現在でもNPO法人で活動している。ちなみにブント書記長の島の要請で弱冠20歳で北海道から上京して、60年安保の〈輝ける委員長〉になった北大生の唐牛健太郎は、最も闘争が高揚した時期に獄中に収監されており、闘争後、北洋漁業の漁師、太平洋横断の堀江などと関わり、衆議院奄美群島選挙区での徳洲会 - 徳田虎雄の選挙にもかかわった。唐牛を中心とした指導部には、後に中核派の幹部となる清水丈夫・北小路敏などもいた。60年の前後、学生運動理論を提起した者には、名古屋大学を経て東大教授となり、67年再建ブントの長らくの同伴者でもあった哲学者の故廣松渉がいた。
1960年(昭和35年)の安保闘争で学生運動は頂点に達した。しかし、この闘争の総括をめぐりブントは解体した。当時全学連主流派指導部にいた西部邁は、プロレタリア通信派、 革命の通達派、戦旗派などへの分裂の中で、離脱し、東大教授を経て、現在、反米保守派として論壇に存在している。
[編集] 〈反主流派〉の動向
一方60年安保闘争時の反主流派には、東大生として理論派として聞こえていた講座派経済学の継承者と目される南克己も、早稲田大学には後の江戸文学研究者であり、第一次早大闘争を小説「洪水の時」で描いた野口武彦がいたのであった。この後、全学連反主流派は、全国学生自治会連絡会議(全自連)結成の後、構造改革派(安東仁兵衛、いいだももなどを指導者とする)との確執を経て、「安保反対、平和と民主主義を守る全国学生連絡会議」(「平民学連」)結成など愛知県学連を中心とした再建運動の中で、川上徹を委員長として全学連再建を果たした。それによって、全国学生自治会の過半は日本民主青年同盟との関係が深い、いわゆる〈日共系全学連〉に組織されることとなった。川上は後、民青同盟の学生対策担当として、67~70年の〈日共系全学連〉を田熊和貴委員長を擁して指導することになる。
[編集] 全共闘の時期
1967年(昭和42年)の羽田闘争に三派全学連(共産同(ブント)、中核派、社青同解放派)が登場し脚光を浴びる。 委員長は斎藤克彦(明大、ブント)、書記長は秋山勝行(横国大、中核派)、副委員長は高橋孝吉(早大、社青同解放派)と蒲池裕治(同大、ブント)がなる。
この1967年10月8日の羽田事件で死亡した山崎博昭は中核派に属していた。
1967・68年当時、三派全学連の二代目の委員長は横国大生で中核派の秋山勝行がなった。その後、三派全学連は解体し、中核派全学連と社会党社青同解放派(人権派弁護士として高名な大口昭彦、ジャーナリスト大谷昭宏は早大解放派であり、大口は第一次早大闘争の時の日共派も参加した早大全共闘議長であった。)、共産同(ブント)系の反帝全学連が指導権を並立する。
60年敗北の総括をめぐる争いの中でブント各派をたたき出して全学連の名称をもぎ取って、全学連を一貫して呼称していた革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義=革マル派全学連は三派全学連設立の際にも参加することなく、東大闘争のさなか早稲田祭実行委員会指導部にいた解放派をこの実行委員会の指導権を巡って武力で早大から駆逐し、さらには東大駒場でも解放派を追撃した。当時の早大学生部長山岡は、わざわざ東大駒場に赴き、早大内部の問題で東大で暴力事件を起こさないように両派に呼びかけた。
ちなみに、1960年代後期学生運動の頂点は、1969年1月中旬に収束した東大闘争であったが、革マル派は全学連として独自行動をし、三派と構造改革派のプロ学同・フロントは全共闘に結集していくことになり、他方、日共(共産党)系は田熊を擁した自派全学連の組織総力を挙げて東大闘争を戦い、東大内部では尾花清(後に三浦聡雄)をキャップにした東大民主化行動委員会(現一橋大学教授で政治学者の加藤哲郎も委員会の指導者の一人であった)が登場する。
東大では、この日共(共産党)系と、反共産党系の全共闘系、革マル系の間で、1968年11月22日の図書館前激突を皮切りに武力での衝突が繰り返えされた(東大闘争のレイテ決戦)。このなかで、日共(共産党)系は、1968年9月の法政大学での中核派・プロレタリア軍団参謀本部との激闘以来、本格的な実力部隊によって登場していた。後にこの共産党系の行動隊は「暁行動隊」として名をはせることになる。行動隊の指揮には後に作家として活躍する宮崎学や川上徹の弟などが関わっていた。また元中大生のジャーナリスト美里伸泰は日共系全学連の全国オルグであったという。ちなみに、三派や革マル派は、共産党系の全学連行動隊の実力ぶりから地域の民青同盟員や労働者を動員したものだとか言い募ったが、実態は、早大・中大・法大の学生活動家達であり、正確には「都学連行動隊」と呼ばれていた。
このころ、東大闘争で一般学生中心の、闘争収束に向けたクラス連合の活動があったが、それに参加していた学生として後に小泉純一郎内閣で外務大臣となる町村信孝がいた。なお新井将敬は全共闘系である。
[編集] 〈内ゲバ〉の時代へ
1972年(昭和47年)の沖縄返還反対闘争を中間点にはさみ、法大での海老原事件を最初として革マル派と中核派の武力衝突が激化し(立花隆著の『中核vs革マル』を参照)、さらには、赤軍派の登場と大菩薩峠事件、よど号ハイジャック、連合赤軍による内部リンチ殺人とあさま山荘事件などが矢継ぎ早に起き、学生運動への市民の忌避感は増大して行った。早大での川口大三郎リンチ事件をめぐって革マル派に対する一般学生による糾弾闘争もあったが、学生たちが党派の内ゲバという殺人をやめさせる力は持ち得なかった。こうして、学生運動そのものも下火となり、系統を問わず全日本学生自治会総連合も衰退していったのである。
[編集] 現状
1963年(昭和38年)に革マル派が大会を単独開催して以来、統一を見ることはなく、民青系(日本共産党系)、中核派系、革マル派系、革労協現代社派系、革労協木元派系の5つの全日本学生自治会総連合(全学連)が並存する状態に至っている。
- 最近の民青系全学連には、学生自治会の役員が民青との関わりが無い学生自治会も存在するようである。このような学生自治会は、特に脱退する理由もなく加盟し続けているのではないかと見られる。
- 2002年に東京都立大学A類学生自治会が、学生大会で脱退決議が可決されたために民青系全学連から脱退するなど、一部には脱退する学生自治会もある。個別の事例においては外部の特定団体の影響が指摘されることがあるが、近年の学生の多くが特定党派に従属したように見える全学連に対して批判的であることが根本的な原因と考えられる。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 全日本学生自治会総連合(民青系)
- 全日本学生自治会総連合(中核派系)
- 全日本学生自治会総連合(革マル派系)