革命的共産主義者同盟全国委員会
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革命的共産主義者同盟全国委員会(かくめいてききょうさんしゅぎしゃどうめいぜんこくいいんかい)は、 日本の新左翼党派。通称中核派。新左翼の中で革マル派と並んで最大の規模・勢力を持つ。(警察は「過激派」、「極左暴力集団」と呼称している)。
「反帝国主義・反スターリン主義の旗のもと 万国の労働者団結せよ!」をスローガンに、マルクス・レーニン主義を掲げ、暴力革命による共産主義社会の実現を目指している。1960年代後半から70年代前半にかけての街頭実力闘争においてはその動員数と戦闘性で他党派の群を抜いていた。70年安保・沖縄闘争が過ぎて運動の退潮期に入ると、かねてから敵対してきた革マル派との抗争(内ゲバ)を激化させた。80年代に入ると三里塚闘争での現地実力闘争とともに、成田空港関連の要人や職員への襲撃や放火などの赤色テロ、反国鉄分割民営化、反天皇制などをテーマに爆弾やロケット弾を用いたゲリラ活動を激化させた。これまでに敵対党派の活動家や警察官を含め約50人を殺害(五名の民間人の誤認・巻き添え殺人も含む)、数千人を負傷させている。
目次 |
[編集] 中核派の組織
- その他、中野洋、北小路敏、高木徹、秋山勝行、天田三紀夫、金山克己、仲山良介など。
- 機関紙誌:『前進』(一時『革共同通信』)、『共産主義者』、『コミューン』(旧『武装』)など
- 学生組織:マルクス主義学生同盟・中核派(マル学同中核派)
- 労働者組織:マルクス主義青年労働者同盟(マル青同)
- 軍事組織:革命軍、糺察隊
- 公然拠点:前進社
- 組織構成:
[編集] 中核派の概要
[編集] 中核派の源流
中核派の源流は、1957年に結成された日本トロツキスト連盟から発展した日本革命的共産主義者同盟(革共同)内の黒田寛一派(革命的マルクス主義者グループ-RMG)になる。黒田は後の革マル派の創始者で、中核派と革マル派は源流が同じである。
第2次大戦後、 日本共産党(日共)及びソ連は、共産主義者の間で絶対的な権威をもっていたが、1955年の日共が武装闘争を放棄をした6全協事件や、1956年のソ連最高指導者が否定されたスターリン批判などの事件によって、それらの権威は揺らぎ始めた。新しい共産主義組織への模索が始まり、そうした中、スターリンと対立していたトロツキーを再評価する組織が生まれた。1957年12月、黒田寛一、太田竜、西京司らが結成した革共同と、58年12月に結成された共産主義者同盟(ブント)である。これがいわゆる新左翼(過激派)の始まりである。
革共同は、トロツキーが作った国際組織第四インターナショナルへの合流を主張する太田竜らの純トロツキスト派に対して、黒田をイデオローグ、本多延嘉を実務の筆頭にしたRMGが、「トロツキズムを乗り越えた新しい体系=反スターリン主義による前衛党建設」を主張して対立した。1958年、大田派が離脱(「革共同第一次分裂」)。
1959年初頭、革共同の議長である黒田自らが、対抗組織である民主青年同盟の情報を警視庁に売ろうとして未遂に終わっていたことが発覚。同年8月の革共同第一回大会で「スパイ行為という階級的裏切り」として黒田は除名される。このとき、本多延嘉(後の中核派の指導者)は一貫して黒田を弁護し、除名された黒田の後を追って革共同を離党。黒田とともに「反帝反スターリニズム」をテーゼとする革命的共産主義者同盟全国委員会(革共同全国委)を結成する(「革共同第二次分裂」)。黒田は議長、本多は書記長に就任した。
一方、もう一つの新左翼であるブントは、学生の大衆組織である全学連の指導権を握り、1960年の 安保闘争に組織をあげて突入していく(「安保が倒れるか、ブントが倒れるか」)。ブント指導による「60年安保闘争」は国民的な盛り上がりとなるが、闘争は敗北に終わり、その結果ブントは分裂崩壊していく。
革共同全国委は、安保闘争でのブントの闘争の意義を認めるよりは専ら批判を加え、自派勢力拡大のチャンスとばかりに理論闘争を仕掛けていく。安保後にブントが分解していったのとは対照的に、「革命的な左翼組織として、唯一の党的組織-組織的に存在し、思想的にも体系化されている-を持つのは革共同全国委だけ」と云われる状態になっていった。その結果、崩壊していったブントから多数の活動家が革共同全国委に合流する。
[編集] 中核派の誕生
安保闘争後、 共産主義者同盟の多くの活動家を吸収し、組織拡大に成功してきた革共同全国委だが、1962年9月に行われた全国委総会(いわゆる「三全総」)において、本多が起草した議案の「党建設」「労働運動方針」を巡って、本多派と黒田派に分かれた大論争に発展。半年後の翌年四月、脱党した黒田派が日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派)を結成。中核派と革マル派の誕生である(革共同第三次分裂)。なお中核派の名称であるが、本多派が全国委政治局の多数を握ったことから、引き続き正式名称は「革共同全国委」のままとなった。しかし、学生組織マルクス主義学生同盟の多数は黒田についたために、新しく作られた学生組織にマルクス主義学生同盟中核派と名づけられたことから、上部組織の革共同全国委も「中核派」と通称されるようになる。
[編集] 70年安保・沖縄闘争
1960年代後半から激しさを増していったベトナム戦争に対して世界的な反戦運動が高まる中で、一貫してアメリカの政策を支持していた当時の内閣総理大臣・佐藤栄作が1967年10月8日に、南ベトナムを訪問するために羽田空港に向かったとき、これを阻止しようとして集まった三派全学連(中核派、ブント、社青同解放派)系自治会で構成する全学連)や反戦青年委員会が初めてヘルメットと角材で「武装」して、警察の機動隊を突破しようとした。この事件以降、急進的な学生や青年労働者は68年1月の佐世保における原潜エンタープライズ寄港阻止闘争や同年の10.21国際反戦デー闘争など「ベトナム反戦-日本の参戦国化阻止」を掲げて激しい街頭闘争を繰り広げることになる。中核派はこれらの闘争を70年安保の前哨戦とし「激動の7ヶ月」と呼称して全力突入、その動員力、戦闘性において群を抜く存在だった。
また同時期、学生運動では当時世界的に広がったステューデント・パワーが、東大、日大をはじめ日本全国の大学にも波及し、全学ストライキとバリケード封鎖の嵐が巻き起こった。それは既成自治会を飛び越えて作られた全学共闘会議が主導することが多く、この時期の学生運動は「全共闘運動」とも呼称される。中核派も含む新左翼諸党派は、この「学生反乱」を「70年安保闘争」と一体のものとして参画していく。
激しい警察当局の弾圧によって組織が消耗した結果、70年6月の安保条約自動延長に際してはゲバルト=街頭実力闘争を手控えた中核派だが、戦闘力の回復した71年にはふたたび激しい街頭闘争を展開することになる。三里塚闘争における3月、7月、9月の強制代執行において、中核派は組織を挙げて現地闘争に参加した。
また、沖縄返還闘争(中核派のスローガンは「沖縄奪還」)にも熱心に取り組み10.21国際反戦デー、「渋谷大暴動を」と扇動して取り組んだ11.14渋谷闘争(機動隊員一名を殺害)、11.19日比谷暴動闘争を取り組んだ。これらの闘争は、「日本帝国主義はすでに政治的には崩壊状態であり、機動隊によってかろうじて維持されている'機動隊国家'である」という情勢認識から「機動隊せん滅」という警察官の殺傷そのものを目的としたスローガンが公然と掲げられ、実際に11.14闘争において殺害した(11.12沖縄ゼネスト時のデモにおいても、中核派の部隊は機動隊員を一人殺害している)。この一連の「沖縄決戦」において中核派は大量の逮捕者を出したが、68年の時期と比べると大衆的な広がりをもったとは言えず政治的な成果は乏しいものだった。また、革マル派の武装襲撃とそれに対する報復もこの時期に激しさを増し、70年安保・沖縄闘争における敗北感と路線喪失が次の時期の「内ゲバの季節」につながっていくことになる。
[編集] 内ゲバの激化
70年安保闘争の時期、熱心に街頭実力闘争に取り組む中核派に対して、「党建設」を重視する革マル派は街頭実力闘争を「組織を権力に売り渡すもの」と批判する一方で、大学自治会におけるイニシアティヴ獲得に力を注ぎ、「暴力的党派闘争による他党派解体と勢力拡大」を目的として、とりわけ大量逮捕によって組織を弱体化させていた中核派に対して暴力的襲撃を激化させていった。革マル派の襲撃はあらゆる左派勢力に及んだが、とりわけ中核派と解放派は直対応的な党派間対決(党派闘争)として組織を「軍隊化」した上での物理的報復を位置づけたために、この「内ゲバ」と呼称される抗争は殺人も含めた激しいものにエスカレートしていくことになる。この「内ゲバ戦争」が原因の一つとなって学生運動は瓦解し、新左翼運動全般が大衆から離反されていくことになる。
1975年3月14日、中核派の最高指導者だった本多延嘉が革マル派によって殺害された。中核派は戦争を宣言し、凄まじい報復を続いた。しかし宣告した革マル派最高幹部の「黒田、松崎明、土門肇の革命的処刑」は果たされていない(黒田は2006年に80歳で病気で死去。中核派は「恥多き死を強制した」としている)。
中核派の「軍事部門」を指揮してきた清水丈夫がまとめた統計によると「73年9.21以来の中核派の対革マル派『赤色テロ』は件数で436戦闘、『完全殲滅』(死亡)43人、そのうち、75年3.14(革マル派による本多殺害)以後の革マル派の死亡は31人」としている。革マル派と解放派の抗争の死者を併せて内ゲバ戦争の死者は100人を下らない。
また、1974年2月6日に琉球大構内に起こった、中核派による「革マル派メンバー」と誤認して殺害した比嘉照邦さんの事件を始め、1975年9月4日の横須賀緑荘アジトにおける爆弾製造中の誤爆による市民二人の死亡(中核派活動家も三名死亡)、83年6月7日には千葉県四街道市の成田空港関連の航空燃料用パイプライン敷設工事現場の飯場に放火して労働者二人を(意図せずして)殺害するなど、民間人の巻き添えの死者を出している(中核派は未だ一つとして謝罪していない)。
80年代に入ると、三里塚闘争における主に「一坪再共有化運動」(空港予定地となっている農家の土地を多くの支援者で共有することで、空港公団の土地取得を困難にさせようする運動。沖縄の反米軍基地運動からヒントを得ている)の是非をめぐって、第四インター派との対立が激化する。三里塚・芝山連合空港反対同盟は分裂し、「一坪再共有化運動」を「土地の売り渡し」「金儲け運動」として反対した中核派らは「北原派」、「再共有化」を推進する第四インター派らは「熱田派」を支持した。中核派は、第四インター派を「公団に土地を売り渡そうとする新しい型の反革命」と規定して、1984年1月、全国一斉に五箇所の第四インター派メンバー宅を襲撃、7月にふたたび一斉に三箇所の第四インター派メンバー宅を襲撃した。これらのテロルによって8人が重傷を負い、その内一人は頭蓋骨陥没、一人が片足切断の重傷となった。また、中核派は、「一坪共有者」の自宅や勤務先に押しかけたり、電話を掛けて「次はお前だ」などと組織的に恫喝を展開する。登校中の活動家の子どもに対して「お前のお父さんを殺す」と声を掛けることもあったという。もっとも、当時の中核派は「革共同による大衆運動の革命的独裁」を掲げ、統一戦線より独自路線による運動展開を優先した側面もある(中核派は1998年に「革共同は、脱落派の再共有化に応じた人びとを含む全国千二百人の一坪共有者に訴える。その権利を絶対に守り抜くことは人民の正義であり、三里塚闘争勝利のために不可欠である」と、「一坪再共有化運動」に対する態度を180度転換するが、第四インター派へのテロについては謝罪などはしていない)。
第四インター派が元々「内ゲバ反対」を掲げ、あらかじめ物理的な報復を行わないことを宣言していた党派であったことから、このテロに対しては激しい批判が集中した。のちに中核派を離脱した小西誠によると中核派組織内においてすら批判的な声は少なくなかったが、指導部の「批判するものは組織を去れ」という統制によって中核派内部の批判が公然化することはなかったという。この第四インターへのテロ襲撃以降、中核派は各種の大衆運動から革マル派とともに排除される傾向が強まることになる。
[編集] ゲリラ闘争の激発
全共闘運動当時のような大衆的な拡大・勢いを失った中核派は、その後、80年代に入ってテロ・ゲリラにその活路を見出していくようになった。同派はこれまでに、建設省(現・国土交通省)幹部宅や新東京国際空港公団(現・成田国際空港株式会社)職員宅などに対する放火・放火未遂ゲリラ事件、自由民主党本部や鉄道施設などを狙った火炎瓶や火炎放射器を用いた放火ゲリラ事件などを引き起こしている。1985年頃からは圧力釜爆弾や飛距離数キロメートルに及ぶ迫撃弾も使用するようになった。88年9月21日には、千葉市内の路上で、当時千葉県収用委員会会長で弁護士の小川彰氏を襲撃。小川弁護士は全身を鉄パイプで殴られ、両足と左腕を骨折するという重傷を負った。このテロに中核派は犯行声明を出し、「収用委員会解体闘争」と称して「電話と手紙を集中せよ」として、他の収用委員全員の住所と電話番号を機関紙『前進』に掲載した。中核派は組織的に脅迫じみた手紙、電話などを送り続け「家族ともども死刑台に乗っていると思え」という手紙が届いたこともあったという。その結果翌月、ついには収用委員全員が辞任する事態となる。
また、昭和天皇死去と現天皇の即位に関連して、1989年から約2年間にかけては「90年天皇決戦」と称して多くのテロ・ゲリラ事件を引き起こした。他にも同派は様々なテロ活動に手を染めており、とくに革マル派との内ゲバは80年代に入ると国鉄分割民営化をめぐる対立で動労幹部などを殺害するなど激しく続いた。あるいは、かつて革マル派が行ってきたような、大学構内から他党派やノンセクトの活動家を暴力的に排除する「党派による恐怖支配」を中核派も法政大、京都大をはじめ、各地の大学で強めることになる。
現在のところ、数名の活動家が殺人・放火・爆発物製造などの被疑者として指名手配されている。星野文昭のように1971年11月14日のデモ隊と機動隊の衝突のなかで、機動隊員1名が死亡した、「渋谷事件」で、「実行犯」にされ、無期懲役が確定した人物もいる。中核派は「その現場に星野文昭はいなかった」として、彼の無実を訴え続けている。
[編集] 「5月テーゼ」と近年の動向
しかしながら、近年は若手獲得とこれ以上の孤立化を防ぐため、テロ・ゲリラ等を控えて、あくまでも組織拡大に重点を置き、市民運動や労働組合への浸透を図る戦術を採っている。これは1991年に中核派が「将来の武装闘争に備えてテロ・ゲリラ戦術を堅持しつつも、当面は武装闘争を控え、大衆闘争を基軸に党建設を重視する」との方針を決めた「五月テーゼ」(03年以降は「新指導路線」と呼んでいる)に基づいた戦術である。ここで注意しなければいけないのは組織拡大とは単に同派の同盟員を増やすことだけではなく、同派と関連がある労組・団体(影響の程度は団体によってかなり異なる)の拡大や設立、ほとんど関係がなかった団体との交流などによる影響力拡大も含まれることである。労働運動の分野では自治体、郵政、教育、JRを「四大産別」として、労組への影響力拡大を図っている。また、毎年11月頃に「全国労働者総決起集会」を東京で開催しており、その動員数は年々増加傾向にある。2005年の「11.6全国労働者総決起集会」では過去最高の2700人を動員した(平成17年の警備情勢を顧みてより)。歴史教科書問題では、2005年、新しい歴史教科書をつくる会が執筆した扶桑社発行の 教科書採択反対運動に積極的に介入し、東京都杉並区などで激しい反対運動を起こしている(「つくる会」の教科書採択に反対する杉並親の会)。また、東京都杉並区・神奈川県相模原市・大阪府泉佐野市・東大阪市・高槻市などの議会には中核派系の議員がおり、議会への進出度は毛沢東主義の日本労働党と並び、日本の新左翼の中では屈指。団体・会派名は都政を革新する会などのように、「○○(自治体名が入る)政を革新する会」とする場合が多い。
2006年、「党の革命」と称して労組内で主導権を取ることを重視するいわゆる「労働戦線派」(多数派)と、これまでの路線を踏襲し各方面での大衆運動に関わることを重視するいわゆる「諸戦線派」(少数派)との間で路線をめぐる対立から、関西や九州などでの「諸戦線派」に対する排除あるいは離脱などの内部対立が表面化した。現役杉並区議であるけしば(結柴)誠一・新城せつこ(節子)両議員も、これまでの議会闘争方針の対立から中核派の政治団体「都政を革新する会」から離脱したが、ここにも中核派内部の対立が反映しているものと考えられる(2007年の統一地方選に、けしば・新城は無所属市民派として立候補を予定しているが、都政を革新する会も前回3人目として出馬した北島邦彦事務局長を対抗馬として立てるとしている)。革マル派は機関紙上で「労働戦線派は『革共同』から『日本労働者党』への改名を予定している」と主張している。
[編集] 「中核派」の呼び名
中核派という呼称は本来、革共同の分裂後、学生組織であるマルクス主義学生同盟の本多支持派が名乗った分派名であるが、分裂後比較的早い時期から上部団体である全国委員会も中核派を公称している。なお、機関紙名から当初は「前進派」と呼ばれることもあった。ちなみに、敵対党派の革マル派が呼称する「ブクロ派」は、かつて拠点の前進社が池袋にあったからである、
[編集] 年表
- 8月 革命的共産主義者同盟から分裂し結成される(革共同第2次分裂)。
- 2月 黒田派が分裂して日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派)を結成し、本多派は執行部を抑える(革共同第3次分裂)。
- 3月 対革マル戦争の路線対立で政治局員・田川和夫が除名。
- 9月 部落問題をめぐる意見の対立から沢山保太郎が除名。
- 2月6日 琉球大学構内で、一般学生・比嘉照邦さんを「革マル派メンバー」と誤認して殺害する。
- 3月14日 書記長・本多延嘉が革マル派に殺害される。
- 対革マル戦争を担いロンドンに亡命していた上口孝夫が帰国し、正統本多派と称して「『勝利に向っての試練』編集委員会」(試練派)を立ち上げ、中核派から分裂した。(後に試練派は1983年、第4インターに近づくが失敗し、86年に「第四インターナショナル・ボルシェヴィキ派(準備委員会)」(ボル派)を結成し、機関誌『ボルシェヴィキ』を創刊した)
- 3月8日 主に「一坪再共有化運動」の是非をめぐって三里塚・芝山連合空港反対同盟が分裂。「再共有化運動」に反対した中核派は、「北原派」を支持する。
- 1月 全国一斉に五箇所の第四インターメンバー宅を襲撃。一人に頭蓋骨陥没させる重傷を負わせる。
- 7月 全国一斉に三箇所の第四インターメンバー宅を襲撃。一人に片足切断の重傷を負わせる。
- 9月19日 中核派の地下軍事組織である「人民革命軍」が、火炎放射器で自由民主党の本部を襲撃。本部ビルの一部を焼失させる。(詳細は自由民主党本部放火襲撃事件の項を参照)
- 10月20日 三里塚交差点付近で、丸太、鉄パイプ、火炎瓶などを武器に、機動隊と大規模衝突を起こす(10.20成田現地闘争)。
- 11月29日 首都圏・大阪地区の国電運転線区で同時多発的に通信ケーブルを切断。さらに、浅草橋駅を占拠し、放火。(詳細は国電同時多発ゲリラ事件の項を参照)。
以降、街頭実力闘争は行っていない。
- 4月15日 在日米軍の横田飛行場を狙って、車の荷台から「迫撃弾」と称した発射物5発を射ち込む。
- 5月4日 東京サミットの式典会場となっていた迎賓館などを狙って、近くのマンションから「迫撃弾」と称した発射物5発を射ち込む。
- 9月21日 千葉県収用委員会会長で弁護士の小川彰氏を鉄パイプで襲撃し、両足と左腕を骨折させる重傷を負わせる。それとともに「収用委員会解体闘争」として収用委員全員に組織的に脅迫じみた手紙、電話などを送り続け、翌月、収用委員全員が辞任し千葉県収用委員会の機能が完全に停止する。
- 5月 「五月テーゼ」を決定
- 年末 議長に清水丈夫を、書記長に天田三紀夫を選出。
- 2月25日 午前二時三十分、革命軍が東京都世田谷区桜丘の運輸省元航空局長に火炎攻撃。「「成田空港二〇〇〇年平行滑走路完成」攻撃を絶対に粉砕することを明らかにする戦闘宣言」と発表。
- 11月 新東京国際空港公団(現・成田国際空港株式会社)次長の自宅に時限式発火装置を仕掛け、放火。
- 8月26日 運輸省(現・国土交通省)幹部の車両に時限式発火装置を仕掛け、放火。革命軍が「農民の営農破壊、生活破壊のためだけに暫定滑走路工事を強行してきた張本人」「強烈無比の爆破戦闘は、乗用車を大破し、家屋をも徹底的に破壊した」と軍報。
- 4月 千葉県職員宅に時限式発火装置を仕掛け、放火。
- 12月18日 中核派元幹部で中核派を批判する本を書いていた白井朗が何者かに襲われる。
- 8月4日 杉並区役所での「新しい歴史教科書をつくる会」教科書採択反対デモの中で、参加者の中核派活動家が、ビデオ撮影をしていた男性に暴行を加えたとして逮捕される。
- 11月6日 同派及び関係労組らが主催する「全国労働者総決起集会」で過去最高の2700人(警察発表)を動員。
- 12月 警察庁の「治安の回顧と展望」と公安調査庁の「内外情勢の回顧と展望」は中核派について、同派と関係のある市民団体と共闘して、「つくる会」の教科書の採択反対運動に関与していることを強く示唆。
- 3月3日 迎賓館や在日米軍の横田飛行場などを狙って迫撃弾を発射し、爆発物取締罰則違反の罪に問われた中核派活動家に対し、東京地方裁判所が懲役12年の実刑判決を言い渡す。被告人側は即日控訴。
- 3月14日 中核派系全学連委員長ら29人が、法政大学で、大学敷地内で立て看板の撤去作業に抗議し、建造物侵入と威力業務妨害の容疑で現行犯逮捕される。
[編集] 中核派の学生運動
中核派が指導する学生組織として、「マルクス主義学生同盟・中核派(マル学同中核派)」がある。学生大衆組織に全日本学生自治会総連合(全学連)があるが現在分裂しており、その一つを中核派が握っている(いわゆる中核派全学連)。2006年現在、中核派の活動拠点となっている大学は以下の通り。
- 法政大学では、2006年3月14日中核派系全学連委員長ら29人が、大学敷地内で立て看板の撤去作業に対する抗議活動を行なっていたところ、建造物侵入と威力業務妨害の容疑で現行犯逮捕された。後日、不起訴で全員釈放されたが、逮捕時には200名にも及ぶ公安警察が動員された。大学当局は逮捕された学生5人を退学・停学処分にした。現在でも「3・14法大弾圧を許さない法大生の会」という団体が学内外でビラまき活動を繰り広げており、大学側は警備員を常駐させるなどして対抗している。
[編集] 中核派の大衆運動 労働者運動
中核派が指導する労働組織として「マルクス主義青年労働者同盟」(マル青同)がある。 また中核派が浸透している大衆団体もあり、実質的に中核派がヘゲモニーを握っているものから、協力関係・支持支援関係にあるものまで様々な「中核派系」の労働団体・市民団体が存在する。
- 動労千葉
- 東京労組交流センター
- 都政を革新する会
- 杉並親の会
- 部落解放同盟全国連合会
- 三里塚・芝山連合空港反対同盟北原派
[編集] 中核派をめぐる人たち
[編集] 幹部・活動家
- 本多延嘉 中核派創設者。カリスマ的な指導者であったが、革マル派に虐殺された。
- 陶山健一(旧幹部)
- 北小路敏(活動家)
- 清水丈夫(活動家)
- 秋山勝行 三派全学連委員長として、中核派外でも人気が高かった。90年代、中核派の議長代行を務める。
[編集] 離脱した元幹部
- 白井朗(元幹部、除名、『中核派民主派宣言』著者)
- 角田富夫(元幹部)
彼らは中核派を批判した後、2002年12月に襲撃され重傷を負った。
- 小西誠(いわゆる「反戦自衛官」。2000年頃、「清水による独裁体制」を批判して脱党。『中核派vs反戦自衛官』『検証 内ゲバ』などの著書で中核派を批判し続けている)
[編集] 現在、指名手配されている中核派のメンバー
- 大坂正明(警備中の警察官を襲撃し殺害・他4件)
- 古川康三(現住建造物放火)
- 木下治人(集団暴力事件)
- 山本寛(集団暴力事件)
[編集] 参考文献
- 立花隆 『中核vs革マル』上巻 講談社〈文庫〉、1983年、ISBN 4061341839
- 立花隆 『中核vs革マル』下巻 講談社〈文庫〉、1983年、ISBN 4061341847
- 警察庁 「平成17年の警備情勢を顧みて-回顧と展望-」『焦点』272号、2006年
- 警察庁 「平成16年の警備情勢を顧みて-回顧と展望-」『焦点』270号、2005年
- 警察庁 「警備警察50年-警備警察50年 ~現行警察法施行50周年記念特集号-」『焦点』269号、2004年
[編集] 関連項目
- 前進社(公然拠点)
- 反スターリン主義
- スターリニズム
- 日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派
- マルクス主義学生同盟
- 全日本学生自治会総連合
- 国鉄千葉動力車労働組合
- 全国部落青年戦闘同志会
- 部落解放同盟全国連合会
- 自由民主党本部放火襲撃事件
- 国電同時多発ゲリラ事件
- 中核vs革マル
[編集] 外部リンク
- 中核派(前進)(公式サイト)
- 全日本学生自治会総連合(中核派系)
- 部落解放同盟全国連合会