大正テレビ寄席
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大正テレビ寄席(たいしょう - よせ)は、1962年12月1日から1978年6月25日までNETテレビ、のちのテレビ朝日で放送された、大正製薬一社提供の公開演芸番組。放送開始から1964年4月までは、水曜日の12:00 - 12:30までの30分番組だったが、1964年5月3日放送分から日曜日の12:00 - 12:45までの45分番組となった。
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[編集] 番組概要
東京・渋谷の駅前にあった東急文化会館(現在は解体)地階の映画館・東急ジャーナル(のちの東急レックス)にて公開収録された番組で、ウクレレ漫談でもお馴染みの牧伸二が司会進行を勤めた。番組で牧がウクレレ漫談をやって、これが見事大受けとなり、当時全くの無名だった牧の出世作となる。但し放送開始当初からしばらくは、ラジオで牧のウクレレ漫談のネタを書いていた落語家の三笑亭笑三との二人司会体制だった。司会が牧一人になったのは、番組開始3ヶ月後である。
番組内容は演芸3組(番組開始当時は2組)とアトラクションで構成していた。
[編集] 番組の趣旨等
公録会場の東急レックス側では、毎週金曜夕方に「東急文化寄席」を、月曜夕方に「お笑い横丁」を、有料で演芸興行を行っていた。番組収録は月曜の「お笑い横丁」の一部といった位置付けであった。このため、他の公録番組と異なり観客の目がシビアであり、所謂「ゆるい(又はぬるい)」笑いは許されなかった。これが一時平均25%を記録した高視聴率を維持し続けた秘訣であると言われている。
制作を担当した山下武(柳家金語楼の実子、元日劇舞台監督)は「3分間に1回笑わせる」「今までにない革新的な笑いを提供する」といった確固たるコンセプトを持って番組製作にあたった。このため、演芸番組でありながら落語家は殆ど登場せず、出演しても漫談を立って演じる程度であった(但し古今亭志ん朝の様な例外もあった)。
新しい笑いを生み出し、番組をモダン寄席にする事をモットーに、制作者は寄席に拘らずキャバレーやストリップ小屋、ジャズ喫茶などあらゆる場所で取材し、出演交渉を行った。その結果、新しいタイプのお笑い芸人を多く輩出。東京のボードビルを紹介して、「演芸ブーム」の牽引役となった。
裏のNHKのど自慢の視聴率を抜き逆転させることもあった(これを機に「のど自慢」は人気挽回のため、リニューアルをせざるを得なかった)。これをきっかけに日曜お昼の視聴率戦争が始まることとなる。
[編集] 出演芸人について
出演芸人は次の通りである。
[編集] 落語家
前記の通り、落語家は基本的に立ち高座だった。そのためか新作落語に強い人や、話術に優れている人が多かった。
[編集] 漫才師
東京漫才中心だが、関西からも時々来ていた様である。
- Wけんじ(東けんじ・宮城けんじ)
- コロムビア・トップ・ライト(コロムビア・トップ、コロムビア・ライト)
- 内海桂子・内海好江
- 獅子てんや・瀬戸わんや
- 青空千夜・一夜
- 青空球児・好児
- 晴乃チック・タック(晴乃タックは現:高松しげお) ほか
[編集] コミックトリオ・コント
東西問わず、人気の有るグループが呼ばれた。また、後にソロ活動でも人気者になる人たちもいる。
- コント55号(坂上二郎・萩本欽一)
- てんぷくトリオ(三波伸介・伊東四朗・戸塚睦夫)
- トリオ・スカイライン(東八郎・原田健二・小島三児)
- 漫画トリオ(横山ノック・上岡龍太郎・青芝フック)
- ナンセンス・トリオ
- チャンバラトリオ(南方英二・山根伸介ほか)
- 東京コミックショウ ほか
[編集] コミックバンド・音楽ショー
ザ・ドリフターズにとって、コミックバンドとして、そしてコントグループとしての地位を築いたのがこの番組だった。
- ザ・ドリフターズ(いかりや長介・荒井注・高木ブー・仲本工事・加藤茶)
- ドンキーカルテット(小野ヤスシほか)
- 殿さまキングス(後に歌手に転向)
- 玉川カルテット
- ぴんからトリオ(宮史郎ほか・後に歌手に転向)
- バラクーダ ほか
[編集] ボーイズもの
寄席で有名なボーイズグループが、基本的に出ていた。
- 灘康次とモダンカンカン
- 小島宏之とダイナ・ブラザーズ
- ミュージカルボーイズ
- 人見明とスイングボーイズ ほか
[編集] 漫談・ものまね・諸芸
こちらも東西問わず、テレビ向けで見て受ける芸人をそろえた。
- 東京ぼん太(漫談)
- トニー谷(ボードビリアン)
- 堺すすむ(漫談、現在はギター)
- 牧野周一(漫談、牧伸二の師匠)
- 南州太郎(漫談)
- 坂野比呂志(大道芸)
- 早野凡平(漫談、パントマイム等)
- 八代英太(ものまね、現在は国会議員)
- 小野栄一(ものまね等)
- 桜井長一郎(ものまね)
- 片岡鶴八(ものまね、片岡鶴太郎の師匠)
- ゼンジー北京(マジック) ほか
[編集] アトラクション
演芸との間に、観客に楽しんでもらうコーナーもあった。
[編集] マキシンのバーゲンセール
番組の中で最も人気の有ったコーナー、元々司会の牧伸二が引越しで余剰になった、洋服や物を自分のショーでチャリティーオークションをやっていたのを、プロデューサーからこの番組でやろうといわれ、1コーナーとしてスタートした。
まず始まりは「バーゲンだよー」の掛け声が響き、その後マーチのリズムとともに牧伸二が、「さぁー、お待たせをいたしました、バーゲンセールのお時間で御座います」と言いながら入ってくる。 この時の牧伸二の服装は、ダボシャツ・ステテコに鉢巻の、テキ屋スタイルだった。 そして、「マキシンのバーゲンセール」と書かれた台の前に立ち、オークションを始める。 台の上には、赤と青の色をした洗面器があり、その中に品物が入っている、但し大きな物は台の下に置いてある。 品物は、想像以上の値段が付き、競り落とすと、競り落とした人は舞台に上がり、競り落とした額を支払い、品物を受け取る。 但し、商品には必ずおまけが付いた。おまけは、競り落とした品物にまつわる物で、結果的にそこそこの物を競り落としたと同じになる。
チャリティーのため、売上金は「あゆみの箱」に寄付された。 このコーナーは後半のアトラクションで、最終回まで続いた。
[編集] 100円均一・つかみ取り大会
番組後期のコーナー、会場から参加者を募り(女性限定)参加者は舞台に上がる。 参加料として100円を「あゆみの箱」に払う。 牧伸二の号砲と同時に、BGMとして軍艦マーチが流れ、つかみ取りが始まる。 参加者はスーパーマーケットで使われるかごの中に、商品を入れていく。 制限時間2分で終了、ここで「大当たりラッキー商品」が発表される。 その商品を持っている人は、つかみ取り商品と共に、ラッキー賞がもらえた。 つかみ取りの商品は、すべて持ち帰れた。
[編集] 勝ち抜きジャンケン「チューケン・ポン」
番組後期のコーナー、参加者は大人子供問わず、会場から募った。 ルールは、ソウルミュージックに合わせ、牧伸二が「ハチ公顔負け、チュー・ケン・ポン」の掛け声と共に、ジャンケンをする。 勝った方はそのまま残り、負けたほうは即退場。これをテンポ良く繰り返す。 3人勝ち抜くと商品がもらえる。 制限時間終了時、例え勝ち抜いてても、そこで終わりとなる。 ジャンケンの掛け声は、渋谷で有名な忠犬ハチ公から、来ている。
[編集] 番組の終焉とその後の番組枠
1976年に同じ時間帯でフジテレビの「クイズ・ドレミファドン!」がスタートし、視聴者を奪われる格好となった。マンネリ化しつつあった内容をテコ入れするも結果が出ず、1978年6月25日をもって打ち切られる。
終了後も大正製薬一社提供枠として、坂上二郎メインの「まっ昼ま笑っちゃおう」が編成されたが全く振るわず、その後「まっ昼間」に引き続き坂上(後にあのねのね)を主演とする「週間漫画ゲラゲラ45」を編成。当初は苦戦を強いられたため、坂上が降板し、後の漫才ブームにのって「漫才スペシャル」を放送した辺りからと、メインであるあのねのねの「スター取調室」(アイドルいびりのコーナー)を挟んで、前半にB&Bの「どっきりギャグカメラ」、後半に伊東四朗を起用したコメディーを構成してからはいくらかは視聴率が上がった。しかし、漫才ブームが去ってから視聴率が落ち始め、結局4年で終了、「ゲラゲラ45」終了と同時に大正製薬がスポンサーを降りた。(大正製薬の提供番組参照)
その後この枠では、横山やすし・西川きよしをメインとした「やすきよ笑って日曜日」がスタートする。人気はあったものの1986年に西川が参議院選挙出馬の為終了、その後この時間帯TBSの「アッコにおまかせ!」に奪われて苦戦を強いられることになる。 以降12時台は「ザ・テレビ演芸」や「探偵!ナイトスクープ」、「旅の香り 時の遊び」や「世界痛快伝説 運命のダダダダ~ン!!」などの再放送枠の時期もあったが、(2006年)現在は「ワイド!スクランブル」の週末版「Sunday!スクランブル」を放送している。
[編集] 関西圏での扱い
番組開始当時は関西圏の毎日放送(当時のNETテレビ系列局)でも放送されていたが、関西の人たちには関東の寄席番組の人気はいまひとつで、しばらくして打ち切られた。
以降毎日放送は「サモン日曜お笑い劇場」を放送、1975年4月以降ネット局となった朝日放送も「日曜笑劇場・あっちこっち丁稚」に差し替えていた。(但しスポンサーは同じ大正製薬だった)。
余談だがこの事が原因で吉本新喜劇はもとより興業主の吉本興業は永六輔から「江戸笑芸を否定する存在」として徹底的に嫌われるようになり永がレギュラーを受け持つラジオ番組や請け負った連載記事などで徹底的に誹謗・揶揄される事となる。この結果所属の芸人は永の名前を出すのを嫌がっているそうである。
また、差し換えを決行した毎日放送はこの事が原因で永から絶縁されていてネットチェンジして以降も同じである。
[編集] メモ
- 番組では、牧伸二が必ず「日曜のお昼だよー、大正テレビ寄席の時間ですよー」と挨拶をすると、笑いが起こったが、前記の通り(月曜の夜)収録で、笑いが起こってしまったそうである。
- 番組では、牧伸二の女装が名物になったが、これは出演者のつなぎとして行われた物である。
- バーゲンセールの「あゆみの箱」に対して、1970年代に視聴者の子供たちから、「ぼくらの小遣いを寄付します」と番組に送られてきた。これに対処するため、バーゲンセールのコーナーの最初に、寄付を送ってきた子供たちの紹介を、テロップで行った。
- 番組と東急文化寄席のパンフレットのには、牧伸二の写真と林家木久蔵の描いた牧伸二モデルのイラストが、描かれていた。
- 終了後は「帰ってきたテレビ寄席」として単発番組として放送されたが、スポンサーの都合もあり、さすがに「大正」とは付かなかった。
[編集] 関連書籍
[編集] 関連項目
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