梨田昌孝
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梨田 昌孝(なしだ まさたか、1953年8月4日 - )は、プロ野球選手(捕手)・プロ野球監督・野球評論家。2000年から2004年まで大阪近鉄バファローズの監督を務めた。2004年に55年の歴史に幕を閉じた近鉄最後の監督で、選手・監督両方で近鉄の優勝を果たした唯一の人物である。2006年6月1日付けで大阪産業大学の客員教授に就任。また個人芸能事務所トゥルーマサを運営。島根県浜田市出身。血液型はA。旧名は昌崇。
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[編集] 来歴・人物
島根県立浜田高等学校から1972年ドラフト2位で近鉄バファローズに入団。強肩を武器に捕手として一年目から頭角を表すが、打撃で伸び悩み、一時は有田修三に正捕手の座を奪われる。しかし打席で両腕をクネクネと動かすフォーム『コンニャク打法』を開発して勝負強い打撃を発揮し正捕手の座を奪回、長きに渡って近鉄の捕手として活躍した。
現役時代は西本幸雄監督時代から、有田修三との併用が多く見られた。「ありなしコンビ」と呼ばれ、当時は「2人とも他球団に行ったらレギュラーは間違いない」と言われており、実際オフになると近鉄に「どちらかをトレードしてほしい」との希望が殺到していたという。この状態は有田が読売ジャイアンツに移籍する1985年まで続いた。
なお、ありなしコンビの成功により、複数の捕手を使い分けるのが以降の近鉄の特徴となり、この状態は近鉄球団消滅まで続くこととなった。よって、近鉄で規定打席に到達した捕手は、1985年の梨田以降出なかった。
[編集] エピソード
- 選手時代、近鉄のライバル球団であった阪急ブレーブスのトップバッターは「世界の盗塁王」福本豊であった。福本の盗塁にはどの球団のバッテリーも頭を悩ませており、当時プロ野球界で一、二を争う強肩であった梨田も例外ではなかった。梨田は考えに考え、福本が塁に出ている際は盗塁を警戒してあらかじめ右足を引いて構え、更に投球をキャッチする際に、ミットから右手でボールを抜き取りスローイングするのではなく、ミットの反発を利用してボールを後ろに受け流し右手でキャッチすることによってスローイングにかかる時間の短縮を図った。この工夫の甲斐もあってか、梨田は、福本がいたにもかかわらず5割を超える盗塁阻止率を記録した。
- 古田敦也曰く、「僕が子供の頃の憧れの選手だった」。
- 近鉄リーグ連覇時の正捕手であるが、当時エースであった鈴木啓示とはバッテリーを組まなかった。(理由は有田修三の項目を参照)
- 大阪府藤井寺市には、梨田が新居を建築しようとした際に発見された遺跡があり、「はさみ山遺跡梨田地点」(はさみやまいせき-なしだちてん)と命名されている。この遺跡は、これまでのところ、大阪に人々が住んでいた最古の遺跡であるとされる。
- テレビのバラエティ番組で藤娘を演じた。演じた藤娘があまりにも美形だったため、梨田=男前が全国区に知れ渡ったきっかけでもある。
- NHKの野球解説者を務めていた1989年、ワールドシリーズの取材でオークランド・アスレチックスの本拠地のマカフィー・コロシアムのスタンドを訪れていたところサンフランシスコ大地震に遭遇、急遽現地の被害状況のリポーターを務めたことがある。(その日の試合は中止になった)
- 近鉄監督就任時、コーチであった小林繁、真弓明信と三人で「近鉄男前三人衆」で売り出し、近鉄百貨店の広告が近鉄沿線駅ポスター・車内中吊りに掲げられ、更にモロゾフのホワイトデーイメージキャラクターになったこともある。
- 監督就任1年目のスローガンは「明るく、楽しく、そして勝つ」。結果最下位に終わり、翌年は「闘志をひとつに、栄光へ。」と改め優勝した。更にその翌年は、「闘志をひとつに、V2へ」をスローガンとしたが、首位西武ライオンズに大差をつけられ2位に終わった。
- 監督時代は報道陣の前でしばしばダジャレを披露した。
- 選手にあだ名をよくつけていた。岩隈久志には独特のフォームから「バンビちゃん」というあだ名をつけたことがある。また山下勝己・下山真二のコンビ名「しもやました」を名づけたのも彼である。また、現役時代にも山本和範には顔つきがドラキュラに似ていることから「ドラ」のあだ名をつけている。
- 監督時代は、1年目にウォルコットを開幕投手に起用したり(3勝4敗、防御率6点台、1年で解雇)、2年目のキャンプではフリントの投球を見て「15勝は期待できる」と高評価したり(結果0勝)、更にガルシアのバッティングを見て「ブーマーに似ている」と発言したり(打率1割台、1本塁打でシーズン半ばに解雇)と正反対の結果になることが多かったため、近鉄ファンからは「梨田の新外国人選手評は全くあてにならない」と定評があった。(2年目にはバーグマンやパウエルの活躍もあって優勝したが、球団アドバイザーであったラソーダが推薦したため、梨田の眼力は一切関係がない)
- 2001年の日本シリーズ前、若松監督とのツーショット写真を写した際、緊張の色の隠せない若松とは対照的に、カメラ目線で笑顔を見せている。
- 2002年松山で行われたオールスターで、自身の球団選手だった的山哲也がMVPを決めた際には「お客様、雨が降る可能性がありますので、気をつけてお帰りください」とジョークを言い放った。
- 2002年、当時この年のドラフト会議の目玉であった和田毅に関して、「後輩をよそに獲られるわけにはいきませんから(梨田は高校の大先輩にあたる)」と半ば獲得に自信を持っているような発言をしていたが、和田は結局ダイエーホークスに入団した。
- 監督時代の愛車はフランス車のプジョー・607。これはプジョーは別名「ブルーライオン」と呼ばれ、球界の"ブルーライオン"である西武ライオンズを乗り込なすことにかけていたらしい。
- 2004年近鉄最後の試合の前日に、選手に向けて残した言葉、「みんな胸を張ってプレーしろ。お前たちが付けている背番号は、すべて近鉄バファローズの永久欠番だ」は球史に残る名言となった。
- 近鉄で一シーズン以上務めた歴代監督16人の中で、通算成績で勝ち越しているのは三原脩、西本幸雄、仰木彬、そして梨田の4人である。
- 2006年にBSハイビジョンで放送された巨人対阪神戦の中継で、NHKの有働由美子アナウンサーが選手の妻の名前を間違えてしまい「すみません」と謝罪すると、「謝って済むような問題じゃない。女性はいいですよね、そうやってニコっと笑って」と突っ込み、一部では女性蔑視だと物議を醸している。
- なお、上記のエピソードは、女性として初の野球中継を担当した有働アナが、あまりに野球に対する知識がなかったためにおきたものである。有働アナは中継中に発言をほとんどせず、実質、梨田氏がアナウンサー役と解説役を1人でおこなっていた。そのうえ、数少ない発言が調査不足のミスであったのでこのような発言となった。
[編集] 略歴
- 高校時代は浜田高校の捕手として活躍。甲子園出場も果たし、高3の春、夏ともに1回戦敗退の成績を残した。ソフトバンクで活躍する和田毅は後輩にあたる。
- 1972年 - ドラフト2位指名で近鉄に入団。当時の背番号は52、登録名は「梨田昌崇」。
- 1974年 - 背番号を8に変更。
- 1979年 - 悲願のリーグ優勝を経験。1981年までベストナイン、ダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)を獲得。また、ダイヤモンドグラブ賞は1983年にも獲得している。
- 1984年 - 登録名を「梨田昌孝」に改名。
- 1986年 - 衰えを隠しきれなくなったこともあり、山下和彦や古久保健二や光山英和にマスクを譲る機会が多くなった。
- 1988年 - 伝説となった10.19のダブルヘッダー第1試合で勝負を決めるタイムリーヒットを打つ。この年を最後に現役引退。
- 1989年 - NHK野球解説者、大阪日刊スポーツ野球評論家となる。
- 1993年 - バッテリーコーチとして近鉄復帰。背番号は73。
- 1996年 - 2軍監督に就任。
- 2000年 - 佐々木恭介監督の後任として就任。成績は6位。
- 2001年 - 前年最下位から一気に球団4度目の優勝に導く。投手のチーム防御率はほぼ5点であった。日本シリーズはヤクルトに1勝4敗で終わる。
- 2004年 - 133試合中、61勝70敗2分、勝率.466の5位で球団の歴史に幕を閉じた。オフに近鉄と合併して誕生したオリックス・バファローズ監督に就任した仰木彬からヘッドコーチとしての入閣を依頼されたものの、「選手の行き先が決まっていないのに自分の行き先を先に決めることはできない」と言って断る。
- 2005年 - 12年ぶりにNHK、大阪日刊スポーツの野球評論家に復帰。かんさいニュース1番の毎週金曜日スポーツコーナーにレギュラー出演。7月には関西テレビ系アニメ「プレイボール」で声優としてデビュー(タイヤキ屋のおやじ役)。現在は実業家として会社も経営している他、京橋グランシャトービル、アーククエストなどの関西ローカルのコマーシャルにも出演。
[編集] 年度別成績
年度 | チーム | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四死球 | 三振 | 打率(順位) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1972年 | 近鉄 | 9 | 3 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .667 |
1973年 | 近鉄 | 60 | 142 | 12 | 28 | 2 | 0 | 2 | 5 | 1 | 2 | 0 | 5 | 20 | .197 |
1974年 | 近鉄 | 115 | 247 | 14 | 48 | 10 | 0 | 2 | 18 | 2 | 6 | 0 | 27 | 41 | .194 |
1975年 | 近鉄 | 45 | 69 | 5 | 11 | 2 | 0 | 2 | 9 | 0 | 5 | 4 | 8 | 15 | .159 |
1976年 | 近鉄 | 48 | 48 | 7 | 13 | 1 | 1 | 3 | 10 | 1 | 3 | 0 | 6 | 13 | .271 |
1977年 | 近鉄 | 80 | 190 | 15 | 47 | 5 | 0 | 0 | 10 | 2 | 8 | 1 | 11 | 29 | .247 |
1978年 | 近鉄 | 58 | 120 | 17 | 32 | 4 | 2 | 7 | 30 | 3 | 7 | 3 | 11 | 15 | .267 |
1979年 | 近鉄 | 114 | 357 | 39 | 97 | 14 | 0 | 19 | 57 | 2 | 12 | 3 | 28 | 44 | .272 |
1980年 | 近鉄 | 118 | 360 | 55 | 105 | 26 | 2 | 15 | 55 | 1 | 10 | 4 | 30 | 58 | .292(19) |
1981年 | 近鉄 | 106 | 374 | 44 | 102 | 16 | 0 | 17 | 48 | 5 | 1 | 4 | 32 | 47 | .273(23) |
1982年 | 近鉄 | 91 | 279 | 31 | 81 | 8 | 0 | 10 | 35 | 6 | 3 | 2 | 22 | 42 | .290 |
1983年 | 近鉄 | 111 | 313 | 34 | 84 | 14 | 0 | 8 | 42 | 7 | 5 | 3 | 36 | 37 | .268 |
1984年 | 近鉄 | 84 | 241 | 29 | 60 | 9 | 2 | 7 | 29 | 4 | 5 | 1 | 26 | 26 | .249 |
1985年 | 近鉄 | 118 | 373 | 41 | 92 | 15 | 3 | 11 | 51 | 3 | 10 | 2 | 35 | 46 | .247(32) |
1986年 | 近鉄 | 79 | 199 | 24 | 43 | 8 | 0 | 6 | 25 | 2 | 6 | 3 | 19 | 27 | .216 |
1987年 | 近鉄 | 35 | 64 | 4 | 15 | 5 | 0 | 2 | 7 | 1 | 1 | 2 | 4 | 19 | .234 |
1988年 | 近鉄 | 52 | 65 | 4 | 14 | 2 | 0 | 2 | 8 | 1 | 0 | 0 | 6 | 13 | .215 |
通算成績 | --- | 1323 | 3444 | 375 | 874 | 141 | 10 | 113 | 439 | 41 | 84 | 32 | 306 | 492 | .254 |
[編集] 獲得タイトル
- ベストナイン 3回 (1979年~1981年)
- ゴールデングラブ賞 4回 (1979年~1981年,1983年)
- オールスター出場 6回 (1979年~1981年,1983年,1985年,1986年)
- オールスター最優秀選手 (1983年第2戦)
[編集] 監督としてのチーム成績
年度 | 年度 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム本塁打 | チーム打率 | チーム防御率 | 年齢 | 球団 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2000年 | 平成12年 | 6位 | 135 | 58 | 75 | 2 | .436 | 20 | 125 | .262 | 4.66 | 47歳 | 近鉄 | |
2001年 | 平成13年 | 1位 | 140 | 78 | 60 | 2 | .565 | - | 211 | .280 | 4.98 | 48歳 | ||
2002年 | 平成14年 | 2位 | 140 | 73 | 65 | 2 | .529 | 16.5 | 177 | .258 | 3.93 | 49歳 | ||
2003年 | 平成15年 | 3位 | 140 | 74 | 64 | 2 | .536 | 8.5 | 187 | .274 | 4.30 | 50歳 | ||
2004年 | 平成16年 | 5位 | 133 | 61 | 70 | 2 | .466 | 17 | 121 | .269 | 4.46 | 51歳 |
※2002年は1試合出場停止(代理監督は真弓明信)。
- 監督通算成績 688試合 344勝334敗10分
[編集] 現在の出演番組
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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- ※カッコ内は監督在任期間。