樺太の鉄道
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樺太の鉄道では、日本統治時代の樺太に於ける鉄道(樺太庁(戦前)の樺太庁鉄道や内地編入後の鉄道省(後の運輸省)樺太鉄道局)について記す。
ソ連侵攻後については、鉄道の概要を参照。
[編集] 歴史
幕末から明治時代初期にかけて、1867年の樺太島仮規則や1875年の樺太・千島交換条約などの不平等条約により日本は樺太における主権を喪失していた。その後、日露戦争の講和のため1905年(明治38年)9月5日に締結されたポーツマス条約によって、北緯50度線以南がロシア帝国から大日本帝国に返還されたが、それに先駆けて同年7月には日本軍が上陸しており、8月には軍政が島全域に敷かれた。
しかし、大泊から豊原の間に軍事物資を輸送するための交通機関が必要となったため、軍用の鉄道を敷設することになった。これが樺太における鉄道の創始である。樺太民政署が置かれた後の1906年(明治39年)9月24日に軌間600mmの路線として着工され、僅か55日後の11月17日には竣工、12月1日にはコルサコフ(大泊)-ウラジミロフカ(豊原)間43.3kmで営業が開始された。この時設けられた途中駅は、トレチャパーチ(三ノ沢)・ソロイヨフカ(貝塚)・ミツリヨフカ(中里)・ホムトフカ(清川)の4つであり、軍事輸送の他に民間の旅客・貨物輸送も行った。しかし突貫工事であったため設備が貧弱であり、全線の所要時間は6時間にも達し、表定速度は自転車よりも遅い約7.2km/hという有様であった。更に車両も蒸気機関車の他には無蓋車があった程度であったため、冬は最寒月の豊原市で平均氷点下13.7℃となる中、無蓋車の上にテントを張っただけの車両に寒さに耐えながら乗車しなくてはならなかった。
1907年(明治40年)3月15日には樺太民政署に代わって樺太庁が発足、鉄道も軍部から樺太庁の交通課に移され、太平洋戦争終戦までに以下に記したような鉄道路線が整備された。また、1910年(明治43年)には軌間も日本国鉄と同様の1067mmに改められ、更に1923年(大正12年)には北海道稚内市の稚内駅から大泊港駅の間を結ぶ稚泊連絡船が開かれて、その他に存在した小樽-大泊・真岡間、稚内-本斗間、小樽-栄浜間の民間航路などと共に、それを挟んで内地の鉄道との連絡運輸も始められた。
1943年(昭和18年)には樺太も内地編入され、鉄道も樺太庁から鉄道省に移管された。
- 樺太東線(大泊港 - 豊原 - 落合 - 敷香 - 古屯(414.4km) :支線 落合 - 栄浜(10.3km) :貨物線 栄浜 - 栄浜海岸(1.8km))
- 豊真線(豊原 - 手井 ※のちに小沼駅 - 手井駅(76.2km)に変更)
- 川上線(小沼 - 川上炭山(21.9km))
- 樺太西線(本斗 - 手井 - 真岡 - 泊居 - 久春内(170.1km) :貨物線 本斗駅 - 浜本斗駅(1.3km) :貨物線 真岡駅 - 浜真岡駅(1.8km))
※樺太西線については、久春内から珍内を経て恵須取・藻糸音まで延長工事が進められ、久春内から50kmほどの地点・中倉庫までと恵須取方は恵須取周辺から上恵須取まで路盤工事が完成し、一部軌条の敷設も済んでいた。しかし、戦局の悪化から軌条を剥がし樺太東線の延長に使われた。
また、以下のような私鉄・専用鉄道も存在した。
- 南樺鉄道線(新場駅 - 留多加駅(18.6km))
- 帝国燃料興業会社内淵線(大谷駅 - 内淵駅(23.2km))
- 南樺太炭鉱鉄道線(後の帝国燃料興業会社内幌線)(本斗駅 - 内幌炭山駅(16.4km))
終戦直前に、ソビエト連邦が侵攻を開始して1945年(昭和20年)中には樺太全土が占領され、鉄道も接収され日本による鉄道の運行は停止し、8月24日を最後に鉄道連絡船稚泊航路も休止された。
[編集] 関連項目
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