群馬県立桐生高等学校
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群馬県立桐生高等学校は、群馬県桐生市美原町にある県内有数の公立進学校である。通称「桐高(きりたか)」。大正6年の設立から卒業生は2万名を越え、様々な方面で活躍している。地元志向が強いことが特徴で、桐生地区の医師・弁護士・教師・会計士・税理士・実業家・政治家の多くが、同校のOBである。小手先の学問的知識・受験テクニックのみならず、将来各界のリーダー的存在になり得る資質を入学希望者に強く求めている。
目次 |
[編集] 概要
[編集] 校訓
「独立自尊」「文武両道」
[編集] 校章
五三桐に「高」(旧制中学時代は「中」であった)
[編集] 教育目標
[編集] 校歌
- 作詞:篠崎与十郎(元・国語教諭)
- 作曲:岡野貞一
- 編曲:高橋龍右(元・音楽教諭)
- 一、山紫に明け初めて
- 流るる水の末霞む
- 桐生の市(まち)の岡の上に
- みどりを競う若松の
- 変わらぬ色の心もて
- 学びの道にいそしまむ
- 二、あづまの山の嶺高く
- 桐生の川の水清し
- この山川を友として
- 東男の名に恥じぬ
- 勲をたてむ心もて
- 学びの道にいそしまむ
なお、戦前の校歌は現在の一番と二番の間にもう一つ「幻の二番」が 存在し、三番までの構成となっていたが、 内容が軍国主義的だったため、戦後になって削除された。 幻の二番の歌詞は以下の通りである。
- 草むす屍(かばね)大君(おおきみ)の
- 御盾(みたて)となりて斃(たお)るとも
- 背(そびら)に矢をば立てざりし
- たけく雄々しき上野(かみつけ)の
- 丈夫(ますらたけを)の心もて
- 学びの道にいそしまむ
[編集] 歴史
明治から大正にかけて、県内他市において前橋中学の分校が設立される中、織物の街桐生においては中学ではなく桐生高等染織学校(現・群馬大学工学部)が設立された為、中学が設立されなかった。その為、桐生の学生達は近隣の太田や足利、前橋の中学に通う為、下宿生活を余儀なくされていた。そのことを憂えた桐生町民が、有志を集め、中学設立に奔走。1917年(大正6年)3月12日に町立桐生中学校として創立された。旧制中学として「町立」の形式をとるの学校は、全国においても数えるほどしかない。当時の桐生の教育熱の高さが窺える。設立4年目の1921年(大正10年)には県立中学に移管し、1948年(昭和23年)に現在の名称である群馬県立桐生高等学校となった。
設立当初から『東毛の雄』として「桐生地区の名門」として、進学面・スポーツ面(特に硬式野球)きな結果を残してきた。 開校以来男子校であったが、1998年(平成10年)から男女共学の理数科を設置した。しかし、普通科の方は依然として男子のみであり、普通科の方が圧倒的に人数が多いため全体比率としては女子は少数となっている。
[編集] 硬式野球部の歴史
- 桐生高校硬式野球部は1920年に、旧制桐生中学野球部として、在校生であった稲川東一郎によって創部された。稲川は卒業と同時に監督に就任する。底冷えのする冬場の練習対策として、自宅の庭を雨天練習場に改築、テニスボールによる打撃練習や、当時としては先進的な筋力トレーニングを行うなどして、選手を強化した。稲川の自宅は「稲川道場」と呼ばれた。
- 1936年春、センバツ甲子園大会で準優勝。
- 1955年春、浪華商(現・大体大浪商)との決勝戦において、稲川は「坂崎大明神」と大きく書いた紙をそこいら中に貼り出して、相手4番の坂崎一彦の徹底敬遠を指示。しかし、同大会でノーヒットノーランを記録している今泉喜一郎が6回1死1塁の場面で、エースのプライドをかけて勝負に出る。結果は坂崎の勝ち。見事なホームランとなり、浪華商が優勝する。桐高は2度目の甲子園準優勝。「坂崎ひとりに優勝をさらわれた」と言った稲川監督は非運の闘将と称され、「坂崎大明神」が流行語となり、桐生市は球都と呼ばれるようになる。
- 1967年春、稲川はグランドで倒れ、不帰の人となる。
- 1978年春、4番阿久沢毅・サウスポーのエース木暮洋を擁し、甲子園ベスト4。準決勝で優勝した浜松商業に敗れる。阿久沢は王貞治以来の二試合連続ホームラン(当時は木製バットであったため、ホームランが現在より出にくかった)、木暮は26イニング連続無失点記録を樹立する。当時流行していたピンク・レディーの「サウスポー」を高校野球応援曲として初めて利用したのこの年の春の桐生高校であった。阿久沢・木暮人気は凄まじく、野球部練習場には多くの女子学生が詰め掛けた。当時のフィーバーぶりについて、『高校野球 忘れじのヒーロー(ベースボール・マガジン社 平成17年9月15日発行)』において、木暮は「女子学生には僕の方が人気があったかな。阿久沢は子供に人気があったけどね。」と語っている。夏の甲子園では優勝候補の筆頭とされたが、2回戦で敗れている。以降、甲子園出場はない。
- 現在は、古豪復活を目指し日々厳しい練習している。近年、かなりの実力を付け始め、県大会ベスト4の常連。桐生市民の期待は大きい。
- 桐高の熱心なファンを「土手の人」と言う。練習が始まると何処からともなく一塁側のグラウンドわきの土手から選手を見守る光景がみられるからだ。中には縁もゆかりもないのにもかかわらず、太田や伊勢崎から通いつめる人もいるほどである。今も多くのファンが復活を夢見ているのである。
- 野球部OBは、プロ選手としてのみならず、高校野球・大学野球・社会人野球等の指導者・監督として多くの優れた人材を輩出し、日本球界に貢献している。
- 甲子園通算記録
【出場回数26回 春12回 夏14回】 【勝利数28勝 春16勝 夏12勝】
[編集] 学校生活
JR・わたらせ渓谷鐵道桐生駅から徒歩5分、上毛電鉄西桐生駅から徒歩10分の立地にあり、通学に不便はない。東武鉄道新桐生駅・相老駅からは、市内循環バスである「おりひめバス」を利用することになる。旧笠懸町、旧大間々町、旧藪塚本町からは、自転車通学をする生徒も多い。
周辺には桐生市立図書館や新川公園があり、閑静な環境で落ち着いて学生生活を送る事が出来る。
ほぼ100%の学生が4年制大学進学を希望する進学校であるが、生徒間の学力の格差が非常に大きく、いわゆる難関大学に進学する生徒から、少数ではあるが4年制大学進学を断念し、専門学校等に進学する生徒まで、とても幅が広い。 入学後の個人の努力によって大きく将来の進路が変わってくる学校であると言える。 実際、卒業生の進路は多種多様である。
進学先については、地元志向が強く、多くの生徒が群馬大学へ進学する。 とくに工学部への進学者数は常に県内上位である。
男子校であったころは、「1浪してでもいいから難関大学へ」という考え方をもった生徒が多かったが、共学化以降は現役志向が強まっており、高望みしない生徒が増えた。 結果、現役合格率は高まった(昭和50年代は50%程度であったのが、現在は平均で80%、女子に至っては100%)が、難関大学合格者数は減少していた。 直近では、積極的な進路指導が結果を出し始め、東京大学現役合格者を輩出するなど、進学校として復活の兆しが見え始めている。
現在、生徒一人一人の進路をかなえるため、夏期休業中の補習や土曜日に希望制の補習、進路指導の強化や大学見学・講義なども行っている。また、修学旅行の日程の中に現地の大学・企業見学が内容として組み込まれている。 また、以前は、「宿題がでない学校」として有名であったが、今では多くの課題が科せられている。
部活動も盛んで、特に硬式野球部は県下でもトップクラスの実績を持つ(後述)。 他、様々な体育系・文化系の部活動、委員会活動があり、近年は、バトミントン部やサッカー部、軟式野球部、 吹奏楽委員会、各種理系文化部の活躍がめざましいが、それぞれの目標に向けて日々努力している。
平成10年に新たに設けられた理数科は、「物づくり」の伝統を持つ桐生という土地柄と地元に群馬大学工学部があるという好条件を活かし、他にはない教育を目指している。 特に4月当初には、 「理数科オリエンテーション」が行われ、自然科学への興味を深める講義、 コンピュータの基礎を学ぶ学習などが行われる。 他、サイエンス合宿など、理数系に興味を持つ学生にとっては興味深いカリキュラムが組まれている。
行事は、体育祭と文化祭が一年交代で交互に行われる。後夜祭では、火文字が作られ、その前でリーダー達が弁舌をふるう。青春の喜びを感じさせてくれるイベントである。 他にも修学旅行やマラソン大会などの行事がある。
[編集] 学校周辺
[編集] 過去20年間における現役生の大学入学者上位校
- 国立大学 群馬大学・高崎経済大学・新潟大学・茨城大学・筑波大学・埼玉大学・千葉大学・宇都宮大学・東北大学・山形大学・信州大学・静岡大学・電気通信大学・横浜国立大学・東京学芸大学・東京外国語大学・福島大学・名古屋大学・東京大学・金沢大学
- 私立大学 日本大学・明治大学・中央大学・法政大学・専修大学・早稲田大学・東洋大学・青山学院大学・神奈川大学・帝京大学・文教大学・獨協大学・東海大学・東京理科大学・芝浦工業大学・立命館大学・駒澤大学・東京電機大学・慶應義塾大学・立正大学・上智大学・立教大学
[編集] 部活動・各種委員会
- 文化部
物理部・化学部・生物部・美術部・英語部・数学研究部・写真部・園芸部・ユネスコ部・ 聖書部・PFC・JRC・文芸部・演劇部・コンピューター研究部・アニメーション研究部
- 運動部
硬式野球部・軟式野球部・テニス部・ソフトテニス部・バスケットボール部・バレーボール部・ ハンドボール部・卓球部・ラグビー部・弓道部・陸上競技部・体操部・山岳部・水泳部・ 柔道部・剣道部・バドミントン部・サッカー部・空手道部・少林寺拳法部
- 常任委員会
体育委員会(各運動部の代表で組織)・学芸委員会(各文化部の代表で組織)・保健委員会・ 美化委員会・ホームルーム委員会(各学級の総務で組織)及び特別委員会・ 応援指導委員会(通称:応援団)・吹奏楽委員会・新聞委員会・放送委員会・図書委員会
[編集] 主な出身者
- 森喜作(きのこ博士)
- 大出峻郎(最高裁判所判事)
- オノサト・トシノブ(抽象画家)
- 新井淳一(テキスタイルデザイナー)
- 木村菊太郎(著述業・演劇評論・邦楽研究)
- 星野富弘(詩人・画家)
- 石川正幸(東京医科歯科大学名誉教授)
- 伊沢康司(名大応化会会長)
- 小暮智一(京都大学名誉教授・天文学者)
- 庭山英雄(法学者・弁護士・元伊藤塾講師)
- 青柳武彦(国際大学グローコム教授)
- 田渕俊雄(東京大学教授・日本学術会議会員)
- 佐々木弘(神戸大学教授・経済学者)
- 寺尾日出男(北海道大学名誉教授・農業工学)
- 海老根東雄(東邦大学付属病院医師)
- 石川信克(結核予防会結核予防研究所・東大医学部卒)
- 中込良廣(京都大学原子炉実験所教授)
- 亀田貴雄(氷雪学者)
- 清水康夫(医師・東大医学部卒)
- 大澤善隆(桐生市長)
- 石原条(みどり市長)
- 稲川東一郎(桐高野球部監督)
- 川島勝司(アトランタオリンピック野球日本代表監督)
- 河原井正雄(青山学院大学硬式野球部監督)
- 相場勤(慶應義塾大学硬式野球部監督)
- 木暮力三(プロ野球選手)
- 今泉喜一郎(プロ野球選手)
- 毒島章一(プロ野球選手)
- 阿久沢毅
- 木暮洋
- 浦田直治(西武ライオンズ取締役)
- トランプマン(プロマジシャン・タレント)
- 小森谷徹(タレント)
- 田村元治(俳優)
- 岡部英二(アニメーションディレクター)
- 関口忠(セキチュー会長)
- 伊藤明(登山家・東京教育大卒)
- 青木嗣(夭折の歌人・早稲田大学卒)
- 鏑木毅(山岳レースのアスリート)
[編集] 応援歌
- ゲンゲロゲンのゲン
ゲンゲロゲンのゲン ゲンゲロゲンのゲン 勝った 勝った 桐高(きりこう)の選手がホイ 選手がホイ 負けたお方は ゲンゲロゲンのゲン ゲンゲロゲンのゲン 沖の遠く(お気の毒で)でセッセッセ
【注】ゲンゲロゲンのゲンについては、作詞者は不詳。 大正末期から昭和初期にかけて、在校生によるものと考えられる。
- 嗚呼、感激の桐高
嗚呼感激の桐高に 凱歌はあがる今日の空 聞け 精鋭の我が友よ
- みな元気だよ
俺たちゃほんとに みな元気だよ 赤城颪に シャツ一枚で 霜の光った 桐高(きりこう)の庭を 赤い頬して ああ 駆け回る