アルトゥル・ニキシュ
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ニキシュ・アルトゥール、アルトゥル・ニキシュ(Nikisch Artúr, Arthur Nikisch, 1855年10月12日 モション県レーベーニ近郊レーベーニ・セントミクローシュ Lébényi Szent-Miklós(現在のモションセントミクローシュ Mosonszentmiklós) - 1922年1月23日)は、現在のハンガリー出身で主にドイツで活躍した20世紀初期の大指揮者の一人。
リヒャルト・シュトラウスやマーラー等、同時代の作品の演奏も積極的に行っていた。 また、現在チャイコフスキーの曲がドイツ・オーストリア系の作曲家の作品と同等の扱いで演奏されているのは、ニキシュの貢献によるものだと言われている。
ハンガリー西部、レーベーニ近郊にハンガリー出身の父とモラヴィア出身の母のもと生まれる。
現在残されているニキシュの指揮姿を記録したサイレント映画では、腕を顔の近くまで高く上げて、鋭い眼光であたかもオーケストラの楽員を催眠術にかけてしまうかのようだ。事実ニキシュの指揮は、チャイコフスキー曰く”魔術に没頭するような”指揮であったらしい。彼の生み出す響きは非常に神秘的な色彩を帯び、当時の作曲家たちは自らの作品がその色に染まっていく様を、驚きを持って聴き入っていたという。
[編集] 生涯
ハンガリーに生まれる。
1866年、10歳でウィーン音楽アカデミーに入学しヴァイオリン並びに作曲を学ぶ。
1873年、17歳で同アカデミーを優秀な成績で卒業。
1874年、18歳でウィーン宮廷歌劇場管弦楽団(ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)にヴァイオリン奏者として入団。以後、同オーケストラでリスト、ヴェルディ、ワーグナー、ブラームスなどの作曲家たちに接する。
1878年(22歳)にライプツィヒ市立歌劇場に指揮者として就職。以後、各地のオーケストラを指揮する。
1885年(29歳) 12月30日、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を指揮してブルックナーの交響曲第7番の初演を行う。
1895年(39歳)にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団とベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者になる。亡くなるまで、ライプツィヒで歌劇場音楽監督を務めた。
[編集] 世界初の運命交響曲録音
1913年、ニキシュはベートーヴェンの運命交響曲をベルリン・フィルと録音した。これは一流の指揮者と楽団による初の大曲の録音であった。まだアコースティック録音の時代であり、オーケストラの編成はかなり縮小されていた。トスカニーニはこの録音について、「私の知るニキシュの演奏とは違う」と語ったといわれているが、歴史的な記録としての価値は高い。CD化もされている。ベルリンフィルとの数点の録音以外には、ロンドン交響楽団との録音や、ピアノ演奏が数点残されている。いずれも1904年から1921年の間の旧吹き込み(アコースティック録音)である。
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